2013年の『恋するフォーチュンクッキー』の大ヒットをピークに、AKB48もそろそろ下火とささやかれている。最近は乃木坂46のほうが露出が多いし。
それは、どちらでもいい。多数の少女が歌って踊る。こういうものを好むのは、もしかすると日本人の伝統らしい。
明治時代のスカイツリーの美人芸者総選挙
明治23年(1890年)、浅草に凌雲閣(通称「十二階」)という日本初の高層ビルが完成し、そこに日本初のエレベーターが設置されて大変な評判を呼んだ。エレベーターで上まで登り、最後は階段で展望フロアまで上ると、東京が一望できたからだ。今で言えば東京スカイツリー。
だが佐藤健二『浅草公園凌雲閣十二階』(弘文堂)や後述する笹山敬輔『幻の近代アイドル史』(彩流社)によると、このエレベーターが故障しがちのため、91年5月28日に運転が中止された。話題のエレベーターがなくなったので、急遽人集めイベントが企画された。それが日本初の美人コンテスト「東京百美人」だ。
コンテストといっても、女性が実際に並ぶのではなく、東京中の芸者102人を写真に撮影し、額に入れて、十二階の中に階段に沿って展示して、だれがいちばん美人かを来場客の投票で決めるというものだった。総選挙なのだ!
芸者の年齢は、下は13歳から上は40歳までいたが、大多数は15~23歳。平均19.3歳だったというから、AKBなどと大差ない。全員が同じセットで、凌雲閣と書かれたうちわを持って立って撮られた写真は、三階には吉原、浅草、四階には葭町(よしちょう)、下谷、日本橋、五階が赤坂というように街ごとに分けて展示された。
客たちは選挙に燃えた。しかも投票用紙は入場券の数だけもらえた。だから、一人で何枚も入場券を買って、お気に入りの芸者に何票も投票する者が頻出した。中には一人で50枚も買う者もいた。こういうところもAKBの総選挙と似ている。
握手こそできなかったようだが、美人芸者からいわば「センター」を選べるということに客は熱狂した。今とは違い、一般庶民が選挙で人を選べるということ自体が新鮮だった。本当の国会議員の選挙では、まだ国民の1%しか投票できない時代だったからだ。
十二階の普段の入場者は1日300人だったが、7月15−17日は1日平均2500−3000人が来場するほどの評判だった。そのため、予定では展示期間は8月13日までだったが、この調子なら入場料収入を増やせるというので、会期は9月12日まで延期されたという。
20年間続いた少女歌劇ブーム
女性が歌って踊るといえば宝塚歌劇団であり、これは誰でも知っているが、その起源である宝塚唱歌隊の結成は大正2年(1913年)だ。翌年、宝塚少女歌劇の第1回公演が開催され、1918年には東京の帝国劇場で東京での初公演が行われた。
これを契機に全国に少女歌劇ブームが巻き起こった。倉橋滋樹・辻則彦『少女歌劇の光芒』によれば、同じ18年には広島で「羽田別荘少女歌劇団」が初演。19年には大阪市楽天地で「琵琶少女歌劇」が、21年「浪華少女歌劇」が初演された。
以来、22年、横浜花月園で「花月園少女歌劇」、23年、博多で「青黛座」、大阪市で松竹楽劇部、24年、堺市で「大浜少女歌劇」、25年、別府で「鶴見園女優歌劇」、27年、札幌で「いく代舞踊部」、27年、大阪市の道頓堀にあった有名なキャバレー赤玉で「赤玉少女歌劇団」、28年、東京で「東京松竹楽劇部」、29年、香川県塩江町で「塩江温泉少女歌劇」、31年、福井市でデパートのだるま屋がつくった「だるま屋少女歌劇部」、32年、金沢市で「粟崎少女歌劇」が初演しているのである。37年には浅草に国際劇場が開業し、東京松竹楽劇部がそこをホームグランドとした。このように宝塚から国際劇場までの約20年間は少女歌劇時代だったのだ。
「モーニング娘。」のデビューが1997年だから今年で20年。80年の時を隔てて、少女たちが集団で歌って踊るブームが長い期間継続したというのだから興味深い。
川端康成も萌えた!
戦前の東京の娯楽の中心と言えば浅草だが、この浅草ではすでに1917年に東京歌劇座が旗揚げしていた。日本館という、それまではあまり流行らなかった芝居小屋がオペラを始めることになった。「浅草オペラ」の誕生である。つまり今年は浅草オペラ100周年なのだ(NHKFM『片山杜秀のクラシックの迷宮』でも10月8日に浅草オペラが特集された)。それまでは、一階の観客席は地べたのまま、ところどころに草が生えていたが、これを改修し、オペラの常設館にしたのである。
浅草オペラで人気ナンバーワンを、ダンサーとして評価の高かった沢モリノと二分したのが河合澄子だった。まだ10代だった河合は歌も踊りもイマイチだったが、とにかく人気があった。
河合が朱鷺色のタイツに短いスカートをはいて、微笑みながら舞台で踊り始めると、若い男性たちが興奮し、「河合、河合!」「フレイ澄子! フレイ澄子!」と連呼したという。熱狂的なファンは河合の自宅に押しかけ、自宅近くの路地には毎日20~30人のファンが集まった。
のちのノーベル賞作家・川端康成も河合のファンだった。やはりノーベル賞候補になった作家・谷崎潤一郎も批評の神様・小林秀雄も宮沢賢治も浅草オペラのファンだった。川端は「河合澄子は美しい。あやしげな幻の病的の世界に私を導かずにおかない」と書いた。「大変いやしい美だ」とも書いている。よほど萌えたらしい。
浅草オペラの人気ナンバーワン河合澄子
その後、河合は東京歌劇座を退団し、自分の一座を結成し、その名称を一瞬「桃色座」としたこともあったらしいが、すぐに解散。1930年、32歳で再び「河合澄子舞踏団」を結成したときの新聞広告コピーは「超エロレヴュー」だったという。大正から昭和初期にかけては「エロ・グロ・ナンセンス」の時代と言われる。そういう時代のシンボルの一人が河合だった。
そういえば安室奈美恵も引退した。少女たちが歌って踊る時代が、もしかすると終わるのかもしれない。あるいは戦前の少女歌劇団がそうであったように、戦争の慰問をする役割を担うのか。
大衆文化をしかつめらしく論ずるのは野暮だ。AKBと似たようなものが昔にもあったからといって、最後は戦争で終わるエロ・グロ・ナンセンス時代と、現代の日本とに共通性があると、私は言いたいわけではない。だが、そこに「一つの時代」を感じ取って、何かを考えてみようとすることは無意味ではなかろう。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)