インドが新型コロナウイルスの爆発的な感染に苦しんでいる。累計感染者数は2500万人に達し、一日当たりの死者数はこのところ4000人を超えている。インドの世界最悪レベルの深刻な大気汚染問題も災いしている。大気汚染を引き起こす微少粒子状物資「PM2.5」を吸い込むと新型コロナウイルスに感染しやすくなることが明らかになっている。
インドで最も感染が拡大している西部に過去20年で最大規模のサイクロンが直撃し、医療現場に大混乱をもたらしていることも頭が痛い。インドの空港倉庫には多数の国際支援物資が届いているが、支援物資を分配する司令塔が不在のため、その大半が必要とする人々に届いていないといわれている。
コロナ禍は経済にも大きなダメージを与えている。インドに進出している日本の自動車メーカーは相次いで生産停止に追い込まれている。新型コロナウイルス第2波に襲われたインドで中間層が崩壊し始めている。昨年9月の第1波の時は農村部など貧困層が多く居住する地域で感染が広がったが、第2波では都市部の中間層と上流層の間で急速に拡大しているからである。インドの民間調査機関によれば、2011年以降中間層に仲間入りした人々の半分以上(約3200万人)が再び貧困層に転落するという。インドは中間層の爆発的な増加により、「第2の中国になる」との期待が高まっていたが、コロナ禍で経済が中長期的に低迷する恐れが出ている。
政権与党を率いるモディ首相の支持率は発足以来最低の水準となっている。このような状態に焦ったのだろうか、与党インド人民党の支持母体であるヒンズー至上主義団体である民族奉仕団のトップは15日、国民に「総ざんげ」を求める主張を展開し、「火に油」を注ぐ結果を招いている。
すでに昨年11月の時点で、インド議会の委員会は感染第2波を警告し、政府に医療用酸素ボンベの調達増を提言していたが、モディ首相は対策を強化せず、自身の人気を高めることに新型コロナウイルスを利用した。モディ首相は1月下旬に「インドは世界で最も多くの人命を救うのに成功した国の一つだ」と自賛し、この過信が現在の第2波の原因である可能性が高い。3月から実施された4つの州の地方選挙では、何千人もの与党支持者がバスでマスクを着用することなく集会に動員された。本来なら来年実施予定だったヒンズー教の祭典「クンブメーラ」も「今年は縁起が良い」という宗教指導者の助言で1年前倒しになり、4月12日には聖地ハリドワールのガンジス川で300万人以上が沐浴した。
中国に対する不信感
現在のインドの惨状は、建国の父たちが設けてきた制度的な安全装置の数々をモディ首相が破壊してきたことの結果であるとの指摘がある(5月12日付ニューズウィーク)。モディ首相個人に権力を集中させ、民主主義社会にそぐわないカリスマ的な人格像を確立させたことにより、コロナ禍への迅速な対応を首相に提言すべき人々や制度のほとんどが無力化されてしまったようだ。
インドの最高裁判所は「政治にもの申す」という点では世界有数の実績を誇り、国民の期待を裏切る政府を厳しく糾弾してきたが、コロナ対策の大失態については一言も苦言を呈していない。報道機関はモディ首相をかばい、反モディ派を「裏切り者」呼ばわりしている。国営テレビに至ってはモディ首相のことを「インドの救世主」と讃える有様である。
しかし新型コロナウイルスによる犠牲者は4月後半だけでインド独立以来の戦死者数の累計を超え、社会全体に絶望と怒りが広がる状況下で、さすがのモディ首相も「一巻の終わり」になるのではないだろうか。次の総選挙は3年先だが、モディ首相が責任を取り、身を引く気配は見せていない。「過去の行状から見て逆境の時ほど危険な賭けに出る」との懸念が生じている。
モディ氏はいわゆる「ガンジー王朝」の呪縛から解放された最初のヒンズー教徒の首相であるが、「もう選挙では勝てない」と判断したとき、「ガンジー王朝」の先例を踏襲する可能性がある。半世紀近く前のインディラ・ガンジー首相(当時)は政権を追われることを恐れて非常事態を宣言し、憲法を停止し、独裁者に変身した経緯がある。
古代ギリシャの哲学者プラトンは「民主政から僭主政が生まれる」と主張したが、僭主とは「血縁に頼らず実力により君主の座を簒奪する者」のことを指す。インドは世界最大の民主主義国家であると称されてきたが、その民主主義が建国以来最大の危機にあるといっても過言ではない。
今や大国となったインドの変節が国際社会に与える影響も大きい。気になるのは中国に対する不信感を強めていることである。モディ首相は習近平国家主席との間で国境紛争地域の問題を棚上げすることで合意し、長期的な視点での関係構築を模索していたが、その約束がインド側から20人の死者が出た2020年6月の中印衝突で破られた。当時新型コロナウイルスの感染拡大対策に忙殺されていたモディ首相は中国側の攻勢に激怒したといわれている。国境紛争については今年2月に双方が部隊の一部を引き揚げるなど緊張緩和の兆しが出ていたが、モディ首相が3月中旬、日米豪の4カ国での枠組み(クアッド)の首脳会談に出席して以来、中国との間で再び緊張が高まりつつある。
中国もインドへの医療支援に名乗りを挙げているが、インド側は無反応である。感染第2波の混乱に乗じて中国が再び侵略してくるとの警戒感が高まっているからだろう。中国との軍事紛争が再発すれば、手負いの獅子となったモディ首相は「起死回生のチャンス」と捉えるかもしれないが、これが「火遊び」で終わる保証はない。
(文=藤和彦/経済産業研究所コンサルティングフェロー)