フィリピンの首都マニラにあった、戦時中の慰安婦を象徴する像が突然、撤去された。報道によれば、4月27日の深夜に重機で台座ごと根こそぎ取り除かれたという。日本政府に対しては直前に連絡があったとのことだが、像建設に関わった地元の女性団体などは、事前の通告がなかったとして抗議の声を上げている。
日本軍が現地に与えた被害の実態とは
今後のことについて、朝日新聞によればマニラ市は「排水工事のための一時的な撤去で、いずれ元に戻されると理解している」などと説明しているそうだが、産経新聞は「再設置や移転は行われない」との連絡が日本政府関係者にあったと報じている。毎日新聞は、ドゥテルテ大統領が「(設置は)政府の政策ではない」として撤去に理解を示す一方で「私有地への設置は構わない。我々はそれに敬意を払う。表現の自由は大事だ」と語ったと伝えている。
この像は、フィリピン政府機関の国家歴史委員会が昨年12月、マニラ湾を望む遊歩道に建立した。韓国の日本大使館前に設置されている少女像とはまったく異なり、フィリピンの伝統的なガウンを着て、目隠しをされ、女性が悲しげな表情で佇んでいるデザイン。台座の碑文には、「この像は、日本軍の占領されていた1942年から45年の間に虐待の被害を受けたフィリピン女性を記憶するものです。彼女たちが自分の身に起きたことを語り出すまでには、時間が必要でした」と刻まれている。事実に反する記載もなく、「慰安婦」という言葉もない。
しかし、日本政府は「良好な両国関係への影響がある」などとして、この像について繰り返し「遺憾」の意を伝えてきた。
像撤去のニュースが報じられると、ツイッターなどインターネット上ではフィリピンやドゥテルテ大統領、さらには安倍政権への感謝や称賛の声が上がった。それに混じって、「ざまぁwwwww」と嘲笑する書き込みや、「レイプは戦場の必然的副産物。日本軍はましなほう」「(フィリピン人の)慰安婦は嘘」などとフィリピン女性の被害を否定、もしくは矮小化する発言も見られた。
像撤去の真の理由や今後について、こういう反応が出てくるのは、戦時中にフィリピンの女性が日本軍によって受けた被害がいかに悲惨なものであったのか、よく知られていないからではないか。
日本軍は1941年12月、アメリカ領であったフィリピン・ルソン島へ上陸し、直ちにマニラを陥落させ、翌42年1月から軍政を実施した。以後、連合軍が上陸して日本軍の占領から解放されるまでの間、フィリピン人はゲリラ戦を展開して抵抗。そんななかで日本軍は、子どもを含めた多くの一般市民を殺害した。学校や病院を襲撃する残虐な作戦もあった。しかも、この地での日本軍の規律は乱れており、現地の女性に対する強姦事件も多発した。被害に遭った女性のなかには、駐屯地の建物に監禁され、一定期間連続的に強姦され続けたと証言する者もいる。
占領地ではマニラをはじめ、各地域に慰安所が設置された。日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦も送り込まれたが、現地フィリピン人の女性も慰安婦にさせられた。日本の植民地として行政機構も整備され、慰安婦集めも主に業者に任せて行われていた朝鮮とは違い、フィリピンでは多くが強制的に連行するなど、手荒なやり方で女性をかき集めた。
アジア女性基金の事業の中で行われたフィリピン政府による、元慰安婦たちへの聞き取り調査の報告書には、こんな事例が報告されている。
〈多くのロラ(おばあさん)たちは、日本兵たちによって強制的に自宅から連行された。〉
〈マニラに住んでいるロラのひとりは、連行された当時、すでに結婚していた。まずなんとか逃げようと考えたのだが、夫が殺されることになるだろうと思い、おとなしく日本兵に従った。彼女は夫とともに(中略)連行され、小部屋に入れられた。夫は裸にされて逆さ吊りにされ、棒で打ちつけられた。丸坊主にされたり、鋼板の間に指を挟まれて指の骨が折れるまで押さえつけられたり、指一本ずつ順番に爪を剥がされたりした。こういった拷問が、彼女の目の前で行われたのだった。夫はその後、別の部屋に連れていかれ、そこで死亡したという。
マニラに住む別のロラは、両親のほか連行されることを拒んだ女のきょうだいを目の前で殺害されたという。別の姉妹ふたりも殺されたのだろうと話している。彼女が無理やり家の外に連れ出されたとき、ふたりの泣き声が聞こえなくなったからだ。〉
〈性行為を拒むと、日本兵は彼女たちを殴った。監禁されていた間のロラたちのつらい経験は、殴られることによってさらに苦しいものとなった。あるロラは、レイプされそうになって抵抗したため、胸部を蹴られたという。同じ理由で肩を刺されたロラもいる〉
〈逃げ出そうとした慰安婦が殺されたのを目撃したというロラたちがいる。そして、逃げようとしたところを見つければ首をはねてやると脅されていたロラたちもいる。ロラのひとりは、逃げ出せないように他の4人の女性たちと腰をひもでつながれていたと話している〉
暴力と恐怖によって連行され、監禁され、陵辱された女性たちの心の傷は深い。この聞き取り調査は戦後60年近くたって行われたにもかかわらず、応じた女性たちの多くは、語りながら涙ぐみ、泣き出した者もいたという。
ヘンソンさんはなぜ日本の過ちをゆるしたのか
あまりに悲惨な体験だったため、起きたことは一人ひとりの胸に長い間しまい込まれていた。なかには、思い切って夫に打ち明けたところ、離婚されたという女性もいる。彼女たちが外に向かって自分の被害を語り出したのは、占領から解放されて50年前後が経過してからだった。その最初が、92年9月に慰安婦として名乗り出たマリア・ロサ・L・ヘンソンさんだ。彼女は、14歳の時に日本兵にレイプされ、15歳の時に日本軍の検問所で捕捉され、慰安婦にさせられたという。93年に日本政府を相手取って裁判を起こし、ようやく対外的に声をあげる人たちが後に続いた。
日本で元慰安婦の人たちに償いをする「アジア女性基金」の構想が持ち上がった時、ヘンソンさんは反対した。日本政府が「法的責任」を認めて賠償を行うことこそ「正義の実現」だと主張した。フィリピンでヘンソンさんらを支援する人権団体「リラ・ピリピーナ」も、韓国の「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」と同じように、強い批判を展開した。同団体は、今も日本の「正式な謝罪と賠償」を求め続けている。
反対の理由は、女性基金による「償い金」200万円は国民からの拠金であり、公式な国家賠償ではないということだった。ただ、女性基金の償いは、それに加えて政府予算からの医療・福祉支援事業(フィリピンでは1人当たり120万円)が加わり、内閣総理大臣からのお詫びの手紙が送られることになっていた。限りなく国家賠償に近い、日本国として尊厳を傷つけられた女性たちへの謝罪ともいえた。
女性基金の対話チームと話し合った被害者のなかには、こうした基金の理念と「償い」の趣旨に理解を示し、受け入れる意向の人たちも出てきた。ヘンソンさんもそのひとりだった。リラ・ピリピーナは被害者一人ひとりの意向を尊重し、受け取りたい人は受け取ることを認めた。そこは、個人の意思を無視して、団体の方針を押し付け、償いを受け入れた被害者を非難し、辱め、差別し、他の被害者が受け入れを公にできないほどの圧力をかけた韓国の挺対協とはまったく違っていた。
96年8月14日、「償い」を受け取ったヘンソンさんは、ほかの2人の被害女性と共に記者会見に応じ、橋本龍太郎総理(当時)からのお詫びの手紙を掲げて、こう語った。
「今まで不可能と思っていた夢が実現しました。大変幸せです」
その手紙には、次のように書かれていた。
〈いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております〉
手紙の最後には、橋本総理の自筆の署名がしたためられていた。
記者から、「これで許すのか」と問われたヘンソンさんは、次のように答えた。
「名乗り出てから、何度も『許すのか』と聞かれました。そして『許した』と答えてきました。なぜなら、そうしないと、神様が私を許さないと思うからです」
歴代首相が被害者とかわした約束はどこへ
その後のヘンソンさんは、デモに参加したり、法廷や集会に足を運ぶことはなくなり、静かな生活を送った。受け取った償い金で家を修繕し、病院に通い、孫にお小遣いを渡すこともできたらしい。家では、総理からの手紙を額に入れて飾っていたという話もある。そして、会見からちょうど1年後の96年8月、69歳で亡くなった。棺の中の顔は、安らかだったという。
ヘンソンさんが受け取ったのと同じ手紙を、その後、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎と3代の内閣総理大臣が、各国で「償い」を受け入れた被害者に送っている。「過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝える」という言葉は、4代にわたる日本の総理が被害者とかわした約束である。
しかし、フィリピン政府に対する日本政府の対応を見ていると、「道義的な責任」も「過去の歴史を直視」する姿勢はどうなったのだろうと思う。また、ネット上での人びとの反応を見ていると、政府が歴史を「正しく後世に伝える」という約束も反故にされていることがよくわかる。
しかも、過去にあった戦争の犠牲となった自国の人びとを記憶し追悼することを、その被害をもたらした他国がとやかく言える筋合いではない。
日本政府が、ソウルの在韓日本大使館の前に設置されている、慰安婦を象徴する少女像について移転を要求してきたのは、外交関係に関するウィーン条約で規定する「公館の威厳の侵害」に関わるからだ。釜山の日本総領事館前に少女像が置かれた時に、大使らを一時帰国させる対抗措置をとったのも同様だ。
この釜山の少女像の横に、韓国の市民団体が日本の統治時代に動員された「徴用工」を象徴する像を設置しようとする動きに対して、日本政府が韓国政府に対応を求めた根拠も、ウィーン条約である。少女像を黙認した韓国政府も、今回は外相が「像は代替地に設置することが望ましい」とする文書を送り、警官隊が阻止するなどの対応に出た。
一方、マニラの像は日本大使館の前に置かれていたわけではない。フィリピンの人たちが事実と異なる宣伝をし、日本を貶めているわけでもない。過去の犠牲者を、フィリピンがどのように記憶していくかは、まさにフィリピンの人たちの自由だ。
戦争末期、日本では各地の都市が米軍機による空襲の被害を受け、一般市民が犠牲になった。犠牲者を悼み、被害を未来にわたって記憶するためにさまざまな碑や資料館がつくられ、慰霊式をはじめとするイベントが今も行われる。
トランプ米大統領から、こうした碑や資料館を破壊しろ、被害の記憶を伝える行事も行ってはならないという強い要請を受けたら、日本政府はそれを受け入れ、実行するのだろうか。日本が、フィリピンに対して行っているのは、それと同じ行為である。
安倍首相をはじめとする閣僚の面々には、4代の総理大臣が元慰安婦に送った手紙を読み返し、被害者とかわした約束を思い出してほしい。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)