事件報道の外注化が及ぼす影響
例えば、昨年には韓国で多数の乗客を乗せたフェリーが転覆する事故が起きた。泣き叫び、怒りをあらわにする被害者やその家族。手錠をつけているような状態でさらし者にされる船長や航海士。後手に回る当局の対応と焦り……。いずれも、今の日本では表立って扱えない話題であり、映像である。
しかし、国内で起きたことではないというだけで、我々はそれを“楽しむ”ことができる。人権やその他の問題に縛られない映像はドラマとしての迫力を持っているし、その背後にある社会問題を考えないで済む気楽さは、格別のものだ。さらに、それらの報道は時に私たちに「隣国は遅れている」「私たちは日本人でよかった」という安堵感や優越感すら与えてくれる。
ある意味、日本の事件報道は「外注化」という意外なかたちで完成形に達したといってもいいのではないだろうか。昨年の大韓航空ナッツ・リターン事件を思い起こしてもそうだ。財閥令嬢の驕慢と転落というわかりやすい構図があり、お決まりのようにさらしもの同然になる。「この傲慢なブルジョワを刑務所に放り込んでやれ!」という声が聞こえてきそうだ。
あまり大きな声ではいえないが、実は筆者もひそかにこの報道を楽しんだ1人である。 しかし、おそらく1年後にはチリの鉱山事故と同じく、この事件は私たちになんの教訓も痕跡も残していないのではないだろうか。
論者の中には、フェリー転覆事故やナッツ・リターン事件の報道の背景に、一種の差別意識が存在していると指摘する向きもある。確かに、そういった印象も拭えないが、実際にメディアの制作現場を支配しているのは、差別意識よりも、面白いネタを思う存分に扱うことのできる解放感、あるいは、そういった物事に向き合った時の日本と外国の感覚や態度の違いの面白さ、であるようにみえる。
しかし、仮にそのような無邪気な動機であったとしても、メディアは一度立ち止まって、この種の報道が日本社会にもたらすマイナス効果について思いを巡らせてほしい。それが異文化理解や人権意識に及ぼす負のインパクトについて、である。もしかすると、そんな心配は杞憂で、かつての韓流ブームと同様に、外注事件報道もすぐに飽きられ、長続きはしないのかもしれないが。
(文=大石泰彦/青山学院大学法学部教授)