今回は、津波の話です。5年前の3月11日は本当に悲惨でした。“極論君”は、「できることはなんでもやる。つまりスーパー防潮堤を築いて、そして高台に全部町を移す」という主張です。一方で“非常識君”は、「100年に一度ぐらいの災難は、素直に受け入れる。たぶん、あと100年近くは同じような大津波は来ないだろうからむしろ安全だ。しばらくは海岸のそばに住む」と豪語しています。いろいろな考えがありますね。
医療でも、「できることはなんでもやろう」というのはわかりやすい考え方です。健診や人間ドックを一生懸命受けて、できるかぎり早期に病気を発見して、それにしっかりと対処をして、そして悔いなく生きようという姿勢です。特別間違っていませんし、世の中はその流れで動いています。
非常識君の論調を医療に当てはめると、「病気をすべて早期に見つけても、本当に命が永らえるのかわからないから、症状が出てからそれに対処すれば、それで十分」といった論調になります。これも実はそこそこ合っています。がんなども、いくら早期発見をしてもそこには限界があり、また早期発見のための労力や、がんと疑われたときに被る精神的ストレス、そしてそれに対処するための金銭的時間的な労力がむしろ無駄かもしれないという意見があるのです。悩ましいですね。
津波対策は公共事業が根幹をなします。ですから、いろいろな意見があっても、何かに集約する、ひとつを選択する必要があるのです。ところが、健康に関するものはまず個人の意識の問題です。せっせと健診や人間ドックを受けることは、個人の自由です。
法定健診は別にして、がんなどの健診はあえて受けない人も、受けない医療従事者もたくさんいます。本当に人間ドックが必要であれば、特に医療従事者は100%人間ドックを受けていそうですが、実はあまり受けていません。人間ドックに入る時間的余裕や、また金銭的な補助もないので、それらがマイナスに働いている可能性もあります。そして実際に病気が見つかると怖いと思っていることもあるでしょう。
そして何よりも彼らは、絶対的に必要だとは経験的にも直感的にも思えないのでしょう。
人間ドックはひとつのきっかけ
しかし、人間ドックを否定することもないのです。人間ドックを欠かさず受けている人は、やはり健康に留意しています。いろいろと気を遣っているもののひとつが人間ドックなのです。人間ドックだけをターゲットに論じると、たいして有効性がないといった論調の論文も少なくありません。大切なことは、人間ドックはひとつのきっかけだということです。ですから、意味があるのです。
津波で、高台に町を全部移転したり、巨大な防潮堤をつくることは、実は馬鹿げているという人もいます。しかし、そんな巨大な公共事情が完遂すると、誰の目にも、津波の恐ろしさは思い出に残るでしょう。約100年毎に起こる巨大津波を僕たちはついつい忘れていました。教科書には、また町の記念碑には確かに100年近く前の大津波が記載されています。でも津波のあとに、いつの間にか同じように町が再生すると、やっぱり悲惨な思いは消えていくのだと思います。
巨大な防潮堤や町の移転をみていると、今度こそは大津波が記憶からなくなることはないのだと思えます。
医療も一つひとつの絶対的な必要性や大切さよりも、一つひとつはたいしたことはないかもしれませんが、それらの総和でより幸せな医療システムが出来上がるのだろうと思っています。いろいろな意見が言えることは大切ですね。そして、医療も実は公共事業と同じく、国の施策で動いています。命や健康を守ることも大切な公共事業ですね。今回は答えがない結論でした。
(文=新見正則/医学博士、医師)