「高齢者に『十年早く死んでくれ』と言うわけじゃなくて、『最後の一ヶ月間の延命治療はやめませんか?』と提案すればいい」「死にたいと思っている高齢者も多いかもしれない」「延命治療をして欲しい人は自分でお金を払えばいいし、子供世代が延命を望むなら子供世代が払えばいい」「社会保障費を削れば国家の寿命は延びる」――昨年12月7日に発売された『文學界』(文藝春秋)1月号掲載の対談「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」。メディアアーティストの落合陽一氏と社会学者の古市憲寿氏が、平成の次に来る時代について語り合った。
この対談には、発売直後からインターネット上で批判が相次いだ。冒頭に引いた両氏の発言の通り、終末期医療や安楽死についての放言が目についたからだ。
「『平成育ち』のトップランナー2人」の死生観、医療観のどこに問題があるのか。2月28日付記事『【終末期医療】物議醸す古市憲寿氏・落合陽一氏対談への反論…重大な4つの事実誤認』に続き、生命倫理学者で東京大学人文社会系研究科死生学・応用倫理センター教授の小松美彦氏に聞いた。以下、小松氏が語る。
理解を深めるための3つのポイント
古市氏や落合氏のような発言に違和感を持つ人たちは、どうすべきなのか。3つほど提起します。
まず、最近は「老人の長生きはよくない」という雰囲気が助長されています。高齢者のなかには「自分がいる」こと自体を申し訳なく思っている人が増えている。身内に対してもそうだし、「世間様」に対してもそう思っている人が増えているのではないでしょうか。しかし、前回申したように、終末期医療にかかるお金は全医療費のなかの2~3%にすぎない。逆の言い方をすれば、そこだけをカットしても国家の医療費全体の問題は是正されません。高齢者のみなさんには、このことをまず知っていただきたい。
前回、古市氏と落合氏の対談には「感性」「生身性」「文学性」が欠けていると言いました。その点について、もう少し補足します。つまり、お二人の対談では経済を軸に医療を考えた結果、変なことになっている。通貨価値や日本経済のデフォルトの可能性に話題が及び、そこから社会保障へとつながる。次に安楽死問題が出てくるという構成です。
確かに経済については考えなければなりませんが、金目の話を軸にすると、だいたいろくな結論には行かない。この点を最低限覚悟したところから、経済とほかの問題を考えなければならない。
難しい問題ですが、そもそも医療が経済のなかに入り込んでいること自体を根本的に省みなければならないでしょう。端的にいえば、自衛隊や警察、消防署の赤字は絶対に問われません。ところが、医療にお金が非常に多くかかっていることは問題になる。そもそもおかしなところから議論が始まっている点を自覚して、そのなかでどうするかを考えなければなりません。
今の日本国家のあり方からすると、経済と医療は切り離せるわけがありません。ただし、日本経済全体を守るために、元来は一番の基本であるはずの医療費を切り詰める。医療費の切り詰めとは、命の切り詰めにほかなりません。これだけは絶対にやってはいけない。
二番目は「Do your part for the Resistance!」という言葉。「抵抗のために各々の責任を果たせ」という意味です。これは落合氏も出演したことのある、BSテレビ東京の深夜番組『ファッション通信』で取り上げられたフレーズ。「すごい言葉だ」と印象に残っています。
それぞれの持ち分で「おかしい」と思ったり、釈然としなかったり、真っ向から違う意見があれば、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でもなんでもいい、自分の持っている手段でいくらでも発信していくべきです。
私自身はSNSにはかかわっていません。ツイッターも、たまに見る程度です。自分で発信した経験は今まで一度もない。ただ、それらのツールが持っている訴求力は大きい。大いにやってもらいたいと思っています。
三番目は、社会保障や医療の分野で高齢者に照準が当たっているなかでの労働や生産性の問題です。「同性カップルには生産性がない」と、ある国会議員が批判して問題になりました。これは、決してその議員ひとりの思いつきではないでしょう。元来の意味での「人生の最終段階における医療・ケア」をやめさせる流れが猛烈な勢いで進行しているなかでの、一個の発言にほかならない。
「安楽死」とはどういうものか?
老人の生産性の問題について、対談の最後のほうで落合氏は「労働というのは体を動かして何かを生産することだと思われているけども、それだけが労働じゃないわけですよ」と指摘している。これは重要です。
実は、私も同じようなことを考えてきました。体を動かしてものをつくり出すことだけが労働ではない。このことを我々は考えるべきです。「肉体労働」に対して「頭脳労働」があることはすぐに思いつくでしょう。ただし、もう一歩進んで、ある人が一切体を動かさなくても、ただそこに存在している、「いる」こと自体が究極的には労働である――私はそう思っています。
その人がいることが周りをどれだけ支えているか。本人は気づかなくても、自分で自分のことを「役立たずだ」と思っていても、高齢者がその家族や親族や近隣にとっての、いわば「かすがい」になって安定する。なかなか見えにくいけれども、そういう事例はごまんとあります。
1980~90年代に少年少女の犯罪をめぐる状況を調べたことがありました。それらの犯罪は、どういうことがきっかけで起こっているか。おじいさんやおばあさんがお母さんからいじめられて家から出て行ったとか、自分を守ってくれていたおじいさんが亡くなったとか。あまり前面には出てこないのですが、そういう事情がわりと多くありました。
別な言い方をすると、いることによって仮に「迷惑だ」と思われていても、「人に迷惑をかける」ことは実は人間にしかできない。見方を変えれば、これは大きな財産ではないでしょうか。そこまで含めてこの問題を考えてもらいたい。高齢者のみなさんには、自分の存在に関してそういうふうにも思ってほしいのです。
本当は誰しもが気づいているはずの「いる/いない」をめぐる問題について、もう一度省みつつ、より多くの人がこの安楽死の問題を考えてもらいたい。誰しも苦しんでのたうち回って死ぬよりも、安らかに死ぬほうを望むでしょう。本来の安楽死は、そこから始まっています。
ところが、今いわれている安楽死は、安らかに死ぬことではありません。そのことも同時に考えてほしい。では、今いわれている安楽死とはどういうものなのか。その正体を自分なりに調べ、徹底的に考えてもらいたいと思っています。
(構成=片田直久/フリーライター)