「高齢者に『十年早く死んでくれ』と言うわけじゃなくて、『最後の一ヶ月間の延命治療はやめませんか?』と提案すればいい」「死にたいと思っている高齢者も多いかもしれない」「延命治療をして欲しい人は自分でお金を払えばいいし、子供世代が延命を望むなら子供世代が払えばいい」「社会保障費を削れば国家の寿命は延びる」――昨年12月7日に発売された『文學界』(文藝春秋)1月号掲載の対談「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」。メディアアーティストの落合陽一氏と社会学者の古市憲寿氏が、平成の次に来る時代について語り合った。
この対談には、発売直後からインターネット上で批判が相次いだ。冒頭に引いた両氏の発言の通り、終末期医療や安楽死についての放言が目についたからだ。
「『平成育ち』のトップランナー2人」の死生観、医療観のどこに問題があるのか。生命倫理学者で東京大学人文社会系研究科死生学・応用倫理センター教授の小松美彦氏に聞いた。以下、小松氏が語る。
古市×落合対談の4つの事実誤認
この対談の感想を一言で言えば、古市氏に関しては「やはり彼は言ったか」、落合氏については「そういう人だったのか」ということになります。対談が話題になってから、一般的には「末期といわれる人たちから医療を奪うとは何事か」「『自分で金を払え』とはひどすぎる」といったかたちでの批判が多かったようです。
この対談に関してまず確認すべきは、特に古市氏の発言は事実にまったく基づいていないということです。少し調べればわかることであるにもかかわらず、です。社会学者として、その点が大きな問題。落合氏も、さまざまな肩書きをお持ちなのであれば、安楽死・尊厳死についても最低限のことは、自分の得意分野と同じようにとはいわないまでも、知ってから対談に臨むべきです。
古市氏と落合氏の大きな事実誤認は4つあります。第一に、「財務省の友だちと、社会保障費について細かく検討したことがあるんだけど、別に高齢者の医療費を全部削る必要はないらしい。お金がかかっているのは終末期医療、特に最後の一ヶ月」という古市氏の発言。これはまったく事実と違っています。
一人ひとりの個人の生涯のうち、どこに一番医療費がかかるのか。確かに最後という場合もあるかもしれませんが、全体としてはまったくそうではありません。終末期医療費は国家全体の医療費の2~3%を占めるにすぎない。二木立・日本福祉大学名誉教授(医師、医療経済学者)がさまざまな分析を集めて検討した結果、そう結論づけています。
二番目は、やはり古市氏の発言で「今の政権は社会保障費の削減にあまり関心がないでしょ」。これも全然そんなことはない。むしろ、なんとかうまい具合にやろうと必死です。
3つ目は、古市氏が「政治家や官僚は安楽死の話をしたがらない」、落合氏は「安楽死の話をすると、高齢者の票を失うと思ってるんですかね?」と発言している点。政治家や官僚は確かに「安楽死」という言葉こそ使わない。しかし、実質的な意味では、今ものすごい勢いで安楽死を推進する政策を進めている状況です。
4つ目は、古市氏の「つまり医者って後期高齢者に対しては九割公務員。しかも本当の公務員と違って、患者を治療するほど儲かる仕組み」という発言。これも違っています。社会保障費削減の一環として、2003年に診断名ごとに1日当たりの医療費を定額にする包括医療費払制度(DPC)が導入されました。ひとつの傷病の診断や治療を行った多くの場合、医療費はあらかじめ決まっています。医師の側がいくら丁寧に治療しようと思っても、入ってくるお金は変わるわけではない。一生懸命治療すればするほど医療機関は金銭的に損をする方向に、どんどん向かっているのが日本の現状です。
こうした最低限の基本的なこと、大前提が現状とはまったく違うまま、「思いつき」「放言」というべき発言が続いている。2人の対談でもっとも大きな問題はこの点です。少なくとも、古市氏は社会学者を名乗る以上、これらの事実は分析するための前提。そこを踏まえないまま分析なるものをするのは、学者、言論人として失格でしょう。
とりわけ残念だったのは、落合氏のほうです。対談のなかでほかのテーマについては独自性のあることをいくつも述べており、私も教えられました。ところが、終末期医療に言及した途端に陳腐なことしか言えない。言論人として彼があの場に出ている必然性がまったくなくなっています。「落合氏も結局はこの程度の人間か」と、私はがっかりしました。
2つの尊厳死法案と政治家の放言
彼らの発言は氷山の一角にすぎないでしょう。知識人に限らず、私くらいまでの世代で終末期医療や安楽死について同じように思っている人は、少なくないのではないでしょうか。結局、この対談、あるいは対談に象徴される今の若い人の多くの生命観や医療観には、感性と想像力と文学性が欠如している。これが根底的な問題です。
たとえば、本当に終末期、特に最後の1カ月に一番医療費がかかっているとしましょう。自分の祖父母がそうした事態に瀕したとき、どんな状態になっているか。そのぐらいのことがなぜちょっとでも脳裏によぎらないのか。
対談では、古市氏の「胃ろうを作ったり、ベッドでただ眠ったり、その一ヶ月は必要ないんじゃないですか」という発言くらいしか、終末期医療への具体的な言及はない。しかし、一般的に終末期でもっとも問題にされてきたのは人工呼吸器の話です。
古市氏も落合氏も、「今から10分間呼吸を止めておいてください」と言われてできるでしょうか。できるわけがない。本当に容態が悪くなり、呼吸にあえいでいる患者をほったらかしにしたり、ましてや一度つけた人工呼吸器をいきなり外したりする。それがどんなに苦しいことか。どれだけ残酷なことか。そのことへの想像力が、あらかじめ吹き飛んでいます。
古市氏は芥川賞候補になった人だし、落合氏も小説を書いた経験について対談のなかで触れている。それにしては、2人の発言には文学性があまりにも欠落しています。ここでいう文学性は「生身性」と言い換えてもよいでしょう。
この対談が話題になったことで、終末期医療や安楽死に今後どんな影響が表れてくるのか。安楽死・尊厳死を推進する動向に、両氏の発言は油を注いだといえるでしょう。言い方を変えると、安楽死・尊厳死を推進しようとする政財界人の代弁者に彼らはなってしまった。
12年の3月と6月に2つの尊厳死法案が公表されました。これらは、国会にいつでも上程できるところまで来ている。上程されれば、現在の勢力からいって圧倒的多数で可決・成立するでしょう。
法案公表の1カ月前に、自民党の石原伸晃幹事長(当時)が胃ろうを増設している患者が入院している施設を訪れて「エイリアンみたいだ」と述べた。また、法案公表後の13年1月には、第二次安倍晋三政権の麻生太郎副総理が社会保障制度改革国民会議で「いいかげんに死にたいと思っても『生きられますから』なんて生かされたんじゃかなわない。しかも、政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと」と述べた。
尊厳死法案が出てきた前後には、この2つに代表されるような政治家の発言が非常に目につきました。財界からも同種の発言はけっこう出ていた。それが、あるときからピタリとやみました。私の見方では、そのきっかけとなったのは16年7月の相模原障害者施設殺傷事件です。
事実上の安楽死政策はどんどん進んでいる
植松聖被告は逮捕後も安楽死を絶賛したり、障害者を「税金の無駄」と言い切ったりしている。彼の発言内容は、それまで政財界の人々が繰り返してきた暴言とほとんど重なります。知的障害者19人を刺殺し、26人に重軽傷を負わせた事件のあと、その種の発言は政財界から一切出なくなった。おそらくは意識的に口をつぐんだのでしょう。あるいは、そうした発言があったとしても、メディアが出さないようにしているのではないか。
そういうなかの昨年末、落合氏と古市氏による対談が『文學界』に掲載されたわけです。政財界の人々が口にするのをおそらくはばかるようになったことを、両氏はまさに代弁した。巨視的に見るなら、そういう構図になっています。
先ほど一点言及したことに結びつけますが、古市氏は政治家や官僚は安楽死の話をしたがらない、と述べている。確かに「安楽死」という言葉は使いたがらない。しかし、事実上の安楽死政策はどんどん進んでいます。そのことを彼は全然わかっていない。
「安楽死」という言葉は「尊厳死」に置き換えられてきました。さらに「尊厳死」は「終末期医療」に置き換わっていった。最近では、その「終末期医療」という言葉さえ使われなくなり、厚生労働省の指示で「人生の最終段階における医療・ケア」という表現になっています。
そもそも「終末期医療」という言葉は、終末期とされる状態の人々に施す医療を指します。これが通常の日本語感覚でしょう。ところが、近年の日本で使われている終末期医療という言葉は、「終末期医療をしないこと」を意味するものになっている。つまり、それは安楽死、具体的には消極的安楽死(治療をしなかったり中止したりすることで患者を死に至らしめること)を指しています。そうした最期を潔く迎えていくことこそが、終末期医療、「人生の最終段階における医療・ケア」にほかなりません。
確かに表面上は安楽死や尊厳死という言葉が目立たなくなってきていますが、安楽死・尊厳死政策は事実上、日本の国策として推進されているわけです。古市氏と落合氏がこの現状にどこまで自覚的かわかりませんが、安楽死・尊厳死政策の完全な尖兵になっているといっていい。
消極的安楽死の外部決定が可能に
しかも、現実には尊厳死法(安楽死法)を制定する必要はなくなっています。07年に厚労省がつくった「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」が18年3月に改訂されました。改訂後のガイドラインでは、大変に巧妙な言葉の使い方がされています。一言でいえば、消極的安楽死がいくらでも外部決定で行えるように変更が施された。
それまで消極的安楽死の対象は終末期とされる人々であり、かつ自己決定権(自分の治療について、他者からの介入を受けずに自由に決定する権利)がベースになっていました。今回の改訂では、旧版にあった「患者」という言葉をすべて「本人」に変えている。終末期とは、もちろん傷病の終末期のことです。ところが、「本人」になったことで、認知症の高齢者をはじめ、その種の傷病者ではない人々がみんなそこに含み込まれてしまう。
意識が不明で本人がどういう最期の意向を持っていたか家族が忖度、推定できない場合の規定も書き換えられました。旧版では「患者にとって最善の治療方針をとることを基本とする」だったのが、改訂版では「本人にとっての最善の方針をとることを基本とする」となった。「治療方針」が「方針」に変わっているのです。すなわち、従来は「治療すること」が前提であったのに、「治療」という言葉を取り払って、逆に消極的安楽死が前提になっている。しかも、「患者」を「本人」に変えることで「人生の最終段階」にある誰でも、家族を含めた周囲の者、つまりは医療施設・介護施設の職員、在宅での訪問看護師・介護士、これらの人々が消極的安楽死を代理決定できる仕組みに正式に変更したのです。
このようなガイドラインの改訂によって、消極的安楽死の外部決定はいくらでもできるようになっています。それでも、決定した人や消極的安楽死を実行した医師が訴追される可能性はある。だから、そのために法律が必要かどうか、尊厳死法の制定はそうした限定された問題に変わっている。お二人の対談を含めた昨今の勢いで、今国会で法律まで持っていくかもしれません。
(構成=片田直久/フリーライター)