安倍首相の米議会演説は卓越していた!プレゼンとスピーチの極意が凝縮、批判は的外れ
安倍晋三首相が4月29日、米国連邦議会上下両院合同会議で演説した。45分間に渡って英語で語りかけ、出席していた米国の高官や上下院議員たちを魅了した。首相官邸HPにその動画『米国連邦議会上下両院合同会議における安倍晋三内閣総理大臣演説』が掲載されており、日本語字幕付きでわかりやすくビジネス英語教材としてとてもいいので、ぜひ視聴を薦めたい。
本稿では安倍首相が「何を」語ったのかについてより、「どのように」語ったのかについて注目したい。
率直にいって今回の英語演説は上出来というか、大したものだった。今世紀に入って英語によるスピーチの達人といえば、初当選した米大統領選挙中のオバマ氏の英語演説、アップル創業者の故スティーブ・ジョブズ氏のプレゼンが卓越していた。もちろん彼らほどではなかったが、安倍首相の「トータル・コミュニケーション力」は素晴らしかった。
演説途中、数百人もの高位高官が十数回もスタンディング・オベーションで強い賛意を示した。安倍首相の後ろに座っていたベイナー下院議長などは、太平洋戦争における硫黄島戦闘のくだりで感極まって泣いていた。今回の演説を「カンペを見ていた」「発音が悪い」「時々つかえた」などと腐す向きもあるが、これらは非英語圏である日本人が英語でコミュニケーションを取ろうとする時の困難を知らない人たちの非難だ。つまり「ないものねだり」である。
かつて、中曽根康弘元首相がある国際会議で日本人首相としては珍しく英語でスピーチを行ったことがある。その時、「United Nations(国連)」と言うべきところを「United National」と言い間違えた。何人かの評論家たちが鬼の首を取ったように「重要な演説なのだから、しっかりした通訳を使って日本語で行うべきだった」とコメントした。
そんな指摘はまったく馬鹿げている。安倍首相の演説でも、原稿は事前にハードコピーで聴衆に配られている。「間違いのない案内」ということだけなら、議場でそれを配って終わりにしたほうがよかったというのだろうか。事前に「内容は百も承知」なのにもかかわらず、ベイナー下院議長が涙したのはなぜか。それは「言葉の力」「プレゼン力」なのである。
「直接、言語で」行う大切さ
「ちょっとした文法上の間違いを恐れて、人前で話すのを躊躇する『完璧主義』が日本人の英語力の最大の障壁だ。発音をバカにされようが、練習を重ねて、大舞台に挑戦したこと自体、少しは評価されてもいいのではないか」(5月1日付東洋経済オンライン記事『歴史的演説!首相を支えた10のプレゼン技術』)