米ブラウン大学ワトソン国際公共問題研究所が昨年11月発表した調査結果によると、2001年9月11日の米同時多発攻撃を受けて始まった米国の「テロとの戦い」によりイラク、アフガニスタン、パキスタンで発生した暴力による民間人を含む死者が計約50万人に達した。
昨年12月20日、米国の複数メディアがトランプ米政権はアフガニスタンから米兵数千人の引き上げを計画中と報じるなど、ようやく戦線縮小の兆しも見える。しかしこれまで払った犠牲はあまりに大きいし、「テロとの戦い」を掲げる海外軍事介入がいつ終わるのかもなお不透明だ。
倭国と呼ばれた古代の日本も、海外で軍事介入に乗り出して大敗し、膨大な犠牲を払った苦い経験がある。白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いだ。
朝鮮半島では655年、高句麗(こうくり)と百済(ひゃくさい、くだら)が連合して新羅(しんら、しらぎ)に侵攻し、新羅は中国の唐に救援を求める。唐の高宗は660年、まず百済に出兵してその都扶余を落とし、義慈王は降伏して百済は滅亡したが、各地に残る百済の遺臣たちは百済復興に立ち上がり、倭国に滞在していた百済の王子豊璋(ほうしょう)の送還と援軍の派遣を要請してきた。
女帝の斉明天皇と息子の中大兄皇子(のちの天智天皇)は大軍派遣を決定。661年、中大兄皇子は斉明天皇とともに筑紫(現福岡県)に出征し、同地で斉明天皇が死去した後は天皇の座に就かないまま戦争を指導する。662年に軍を渡海させるが、翌663年、朝鮮半島西岸の白村江で唐・新羅の連合軍に大敗した。これが白村江の戦いである。
白村江で唐・新羅連合軍は倭国水軍と4度戦い、倭国の船400隻を焼き払った。その煙と炎は天を覆い、海が赤く染まったという。唐の軍艦が陣を敷いていたところに、次から次へと倭国の兵が突撃し、両側から挟み撃ちにあって、多くの兵が溺死した。数万の軍はほぼ全滅だったとみられる。
わずかながら帰国した兵や捕虜となった兵の記録が残っている。白村江とは別の新羅戦線に進軍した兵士たちとみられる。命こそ助かったものの、大変な辛苦をなめたようだ。
奈良時代の歴史書『日本書紀』によると、大伴部博麻(おおともべのはかま)という筑紫国の農民兵が690年に帰国した。あるじの豪族4人とともに唐軍の捕虜になったが、自分の身を売って奴隷になり、その金であるじを先に帰国させる。本人が帰国を果たしたのは白村江の戦いから27年も後だった。
また、平安時代初期の歴史書『続日本紀』によると、讃岐国(現香川県)出身の錦部刀良(にしごりのとら)ら元兵士4人が白村江の戦いから実に44年後に帰国する。唐で賎民に落とされていたが、日本から来た遣唐使に偶然出会い、運よく連れて帰ってもらうことができたという。
こうした幸運な例を除けば、捕虜となった人のほとんどは異国の地で亡くなったとみられる。
戦争に負けても構わない?
倭国軍はなぜ敗れたのか。多くの歴史書では、唐軍が国家軍で、訓練されて統制のとれた軍隊だったのに対し、倭国軍は豪族軍の寄せ集めで、地方豪族が配下の農民を徴発して連れて行っただけだったことが敗因とされる。
唐の国家軍は上下の統制、横の連絡が取れ、日常的に訓練を受け、作戦の浸透が迅速だった。一方、倭国軍は豪族同士の連携や連絡がなく、おそらく兵に武器も行き渡っていなかった。攻撃の練習くらいはしたかもしれないが、もともと農民だから、実際の戦場では戸惑うばかりだったと思われる。
敗因に関するこの見方は、それなりに納得できるものだ。しかしそうなると腑に落ちないのは、なぜそのような無謀な戦争に乗り出したかである。豪族軍の寄せ集めでは唐軍に太刀打ちできないことくらい、事前にわかっていたはずと思われるからだ。
日本史の教科書では、中大兄皇子は古くから交流のある百済を復興して朝鮮半島における倭国の勢力を挽回しようと考え、派兵を決断したと書かれている。だが、本当にそうだろうか。
歴史学者の倉本一宏氏は、中大兄皇子が派兵に踏み切った時期は百済の遺臣たちが唐の進駐軍に対し各地で勝利を収めており、今から見れば無謀に思えても、当時の情勢としては勝つ可能性もあったと述べる(『戦争の日本古代史』)。そのうえで、派兵に別の目的があった可能性を指摘する。
その目的とは、戦争に負けても構わないから、それを国内政治に利用することである。
中大兄は645年の乙巳の変で蘇我氏本家を滅ぼし、大化改新と呼ばれる一連の政治改革で、天皇を中心とする中央集権国家の建設に着手している。戦争に負ければ、唐や新羅が倭国に攻めてくるとの危機感を煽り、国防を固めるため国内の権力を天皇に集中せよと主張しやすくなる。
軍事色の強かった奈良時代前夜の日本
倉本氏はさらに一歩進め、派兵の真の目的について大胆な説を提示する。
中央集権国家の建設を目指す中大兄にとって、一番の障碍になっていたのは、伝統的な権益を守るため、中央政府の命に容易に服そうとしない豪族だった。そうであれば、邪魔な豪族を戦争に送り込み、死なせてしまえばいい。突拍子もない考えに思えるかもしれないが、こういう考えは中国では「裁兵」といい、古来からあった。征服した国の将兵は反乱を起こしかねないので、負けてもいい戦いに投入して始末するのだ。
事実、白村江の戦いから9年後に起こった内乱、壬申の乱では、白村江の戦いに参加した豪族の名はほとんど見られないという。
白村江の戦いの後の668年、中大兄は正式に即位して天智天皇となり、中央集権化を急ぐ。670年には最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)が作成され、徴税と徴兵が行いやすくなった。白村江の戦いで地方豪族の勢力が大幅に削減されたことから、中央権力がかなりの程度、地方にまで浸透していく。
もし朝鮮半島に大軍を派兵した真の目的が、戦争に勝つことよりも、地方豪族の勢力を弱め、中央政府の権力基盤を強化することだったとすれば、そのもくろみは思惑どおりに成功した格好だ。
しかし、それが一般庶民にとって良いことだったとはとてもいえない。兵となった多数の農民が白村江や朝鮮半島の戦場で命を落とし、生き残った人も多くは異国の土となった。
天智天皇の死後、壬申の乱を経て、奈良時代前夜の7世紀末、天皇と官僚を中心とする中央集権国家は完成に近づく。当時、北東アジアは平和を迎えていたにもかかわらず、戦争への危機感を煽って建設されたことを反映し、極めて軍事色の濃い国家となった。この中央集権国家の下で、庶民は苛酷な税や兵役に苦しむことになる。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)
<参考文献>
倉本一宏『戦争の日本古代史——好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』講談社現代新書
磯田道史、倉本一宏、F・クレインス、呉座勇一『戦乱と民衆』講談社現代新書
仁藤敦史『NHKさかのぼり日本史(10)奈良・飛鳥 “都”がつくる古代国家』NHK出版