「印象操作」の匂いが漂う人たち…あなたも責任回避や自己防衛のために印象操作している
近頃よく耳にするようになった言葉に、「印象操作」がある。国会審議に関するニュースなどで、「印象操作はやめてください!」「印象操作をしているのはそっちでしょう!」といった応酬を目撃することが、しばしばあったからだろう。政治にはまったく関心のない学生までが、「お前、印象操作してるな」などと口にしたりする。
このように世間に広まった印象操作だが、実のところ、どのような言動を指すのかよくわからないという人が少なくないようだ。私が心理学者だということもあって、印象操作について教えてほしいと言われることもある。文字通り、人に与える印象を操作することだというくらいはわかるが、具体的にどんな言動がそれに当たるのかを知りたいという。
そこで今回は、印象操作にはどのようなものがあるのか、またその背後にはどんな心理メカニズムが働いているのかについて、解き明かしていくことにしたい。
ちょっと余計なことを言うと、実はどちらが印象操作をしているのかといった応酬においては、最初にその言葉を口にしたほうがやっている可能性が高い。なぜなら、ムキになって反論するとき、真っ先に思い浮かぶ言葉は、本人が特に心の中で意識している言葉だからだ。だが、そうしたことはここでは棚上げして、印象操作そのものについて考えてみることにしたい。
もともと印象操作というのは、社会心理学者ゴフマンが唱えたもので、人に与える印象をマネジメントすることを指す。その方法として使われるのが「セルフ・プレゼンテーション」、日本語にすると「自己呈示」である。これは、どんな印象を与えたいか、あるいはどんな印象を持たれるのを避けたいかを念頭に置き、自分の見せ方を調整する、つまり自分の言動を調整することである。
印象操作などいうと、いかにもあくどい人間がするもの、そこまでではなくても、政治家など駆け引きを常套手段とする人物がするものであって、自分には無縁だと思っている人もいるかもしれない。だが、決してそんなことはない。
では、印象操作とは具体的にどのような言動を指すのか。それがわかれば、実は誰もが日常生活のなかで、ごく普通にしていることだとわかるはずだ。
謝罪会見に胡散臭さが漂うのはなぜ?
印象操作の最たるものは、政治家や企業トップの謝罪会見だろう。その手の謝罪会見の様子をニュースで見て、空々しく感じる人が多いのではないだろうか。たいていの謝罪会見には胡散臭さが漂うものだ。それは、そこで行われている謝罪が、自己呈示としての謝罪であり、印象操作を狙ったものであるからだ。
一般に、謝罪には2種類ある。心から悪かったと悔いて謝罪するのが本物の謝罪だとすると、心の中では「なんでこれくらいのことで」「誰だって、やってるじゃないか」「見つかるなんて運が悪いな」などと思っているのに、悪い印象を避けるためにかたちだけ謝罪するのが自己呈示としての謝罪ということになる。まずいこと、責任を問われるようなことをしてしまったあとで、印象をそれ以上悪化させないように、あるいは少しでも良い印象を挽回すべく、申し訳なさそうな様子を演出するのである。
もっとも、本物の謝罪であっても、そこには自己呈示の側面が伴うものである。「悪いことをした」「申し訳なかった」と心底思っていたとしても、相手にそれが伝わらないとまずいので、冗談を言って笑ったりするような誤解を与えるようなことはせずに神妙な様子を保ったりするのも、自己呈示としての側面といえる。
言い訳も、典型的な印象操作の一種である。言い訳をしたことがないという人はいないはずだ。では、なぜ言い訳をするのか。それは、咎められそうなとき自分の落ち度を少しでも軽くしたいから、責任を問われそうなとき自分の責任を少しでも軽減したいからである。
つまり、相手に与える印象を意識した言動ということになり、まさに印象操作といえる。普段本人は、このようなことはほとんど意識せずにほぼ自動的に言い訳をしているだろうが、周囲の人にはその隠された意図が見え見えであることが多い。
印象操作を狙った言い訳にも、いくつかの手法がある。それは、「意図の否定」「自由意志の否定」「状況要因の強調」「社会的比較」などである。
意図の否定というのは、「そんなつもりではなかった」「こんなことになるとは思わなかった」などと、自分には悪意がなかったことを強調するものである。
自由意志の否定というのは、「自分には決定権がなかった」「拒否する権限がなかった」ということをほのめかすものである。
状況要因の強調というのは、「当時の状況ではやむを得なかった」などと状況のせいで仕方なくそうなったとアピールするものである。
社会的比較というのは、「みんなもそうしていたから、とくに悪いことだと思わなかった」などと他の人たちを引き合いに出すものである。
どうだろうか。思い当たることがあるのではないか。
実は誰もがしている印象操作
「自分は見せかけの謝罪などしたことがないし、言い訳も嫌いだ」という人もいるだろう。だが、そんな人でも、じつは日常生活のなかで無意識のうちに印象操作を行っている。その筆頭にあげられるのが「セルフ・ハンディキャッピング」だ。
セルフ・ハンディキャッピングとは、万一自分が成果を出せないときや、みっともないパフォーマンスを見せてしまったときなどに、みんなからバカにされないように、自分自身の気持ちも傷つかないように、前もって自分にハンディをつけておくことを指す。
たとえば、みんなでゴルフに行こうということになると、「私はちゃんとしたコースを回ったことなんか、ほとんどないんですよ」「僕は何回も回ったことがあるけど、もう10年くらいやってないなあ」などと、経験の乏しさを強調する人や、いかに久しぶりかを強調する人が、必ずといっていいほど出てくる。職場のレクリエーション企画としてのボウリング大会などでは、やはり経験の乏しさや久しぶりだということのアピール合戦の様相を呈することになる。
昇進のために会社で義務づけられている資格試験の前日になると、「オレ、このところいろいろあって、準備勉強が全然できていないんだ」などと、準備不足を強調する人が出てくる。試験当日の朝には、「昨日からどうも熱っぽくて、頭がボーッとしちゃって、今回はダメそうだ」などと、コンディションの悪さを訴える人が出てくる。
このように自分にハンディをつけようとするのも、いざみっともない結果に終わった場合に、実力不足とか無能といった印象を持たれるのを防ごうとしてのことである。印象の悪化を防ぐための必死の印象操作なのである。
こうしてみると、国会の議論のなかでこのところ口にされることが多くなった印象操作も、実は誰もが日常的に行っている、とても身近な自己防衛策なのだとわかるだろう。印象操作の具体例やその背後にある心理メカニズムを踏まえれば、周囲の人たちの何気ない口調にも印象操作の匂いがするはずだ。そこに漂っているのは、「こんな印象を持たれたら嫌だな」といった不安心理や、「うっかり傷つけないようにしなくちゃ」といった相手への気づかいだったりする。
だが、政治家や企業トップの行う印象操作には、わざとらしさや露骨な嫌らしさが漂うことも多い。国会中継やニュースで流れる記者会見などの映像をそんな観点からみると、印象操作をめぐる攻防を楽しめるのではないだろうか。
今回は自己防衛のための印象操作について解き明かしたが、自分の有能さや正義感をアピールする印象操作もある。まもなく選挙運動が始まるが、立候補者の演説や応援演説を、印象操作という観点から冷静に分析するのもおもしろいだろう。ほんとうはおもしろがっている場合ではないのだが。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)