受賞歴だけでも活目に値する。芥川賞に始まり、谷崎潤一郎賞、読売文学賞、野間文芸賞、川端康成文学賞、菊池寛賞、泉鏡花文学賞など、これといった文学賞を総なめ。そして仕上げが文化勲章。芸術院会員でもある。
過去、文壇の大御所といわれた人でも、これだけ華やかな受賞歴を誇る人は数少ない。
しかし、そうでありながら、「10年に1度、大作を書く作家」だと見なされていたほど、丸谷氏は極めて寡作であった。ましてや、人口に膾炙した作品となると数えるほどだ。芥川賞受賞作の『年の残り』や『たった一人の反乱』『裏声で歌へ君が代』、それに吉永小百合主演で映画になった『女ざかり』くらいか。
私小説を嫌い、ユーモアを漂わせ、風俗性を取り入れた作品世界を志向していたこともあるのだろうが、『たった一人の反乱』や『女ざかり』などには単なる風俗小説との評価も付きまとう。
それでいてこれだけの賞を受賞しているのは、批評家、評論家としての卓抜した能力によるところが大きい。『忠臣蔵とは何か』『後鳥羽院』など、評論、随筆が小説より多いほどだ。博学で、ユーモアに富む語り口の対談集などもファンが多かった。
●怖いことをして愉しむ人
ある編集者は、こういう想い出話をする。
「戦後を振り返るといったテーマで、総合雑誌の編集長を務めたことのある評論家の方と対談をしてもらった。もちろん互いに旧知の仲。丸谷さんは、最初から最後までその人の言うことを大いに持ち上げ、そのうえお酒までどんどん飲ませていい気持ちにさせておき、最後の最後でドスンと話をひっくり返してしまった。相手の方は見るも気の毒なほどしょげ返って、そのあと悪酔いして大変だった。丸谷さんには、ユーモアたっぷりの一方で、そういう怖いことをして愉しむ人という印象がある」
こうしたことに限らず、丸谷氏は文壇ではたいへん怖がられていた。そうした話はよく耳にする。
1つは、丸谷氏がかつては芥川賞はじめ多くの賞の選考委員を務めていたことから、その厳しい批評眼を恐れてのことだ。ただ、よく知られているように、早くから村上春樹の才能に注目、温かい目を注ぎ続けた。厳しさは、後輩作家を育てようという“丸谷流”の愛情表現と見られなくもない。
●既成の有名作家にまで恐れられる
しかしそれだけでなく、既成の有名作家たちまでもが、丸谷氏を恐れていたという説が根強くある。語るのは文芸誌の元編集者。
「丸谷さんは、バブル期に地方自治体などが次々に創設した文学賞の選考委員に、自分の息のかかった作家を送り込んでいた。もちろん自治体側から相談されてのことだ。丸谷さんにすれば親切でやっておられたのだろうが、その人たちは丸谷さんに頭が上がらなくなる。純文学系の人の中には、あの人がというような有名作家だが、食えなくて頼み込んで推薦してもらった人もいる。そういう話が当時いくつもあって、そうなると両者の力関係は推して知るべしだろう」
そうした過程を経て、丸谷氏は文壇に強い影響力を持ち、ドンとして君臨することになったということのようだ。自治体側は後年になると、丸谷氏がドンであることを知って相談に行ったということでもあろう。