一世を風靡した「ヒロココシノ」や「ミッシェルクラン」など有力ブランドを展開する老舗アパレルのイトキンが、スカイマークのスポンサーになったことで知られる投資会社インテグラルに買収された。
インテグラルは創業家らからイトキンの株式を取得するほか、イトキンが実施する第三者割当増資45億円を引き受けて、議決権の98%を取得した。買収総額は負債を含めて165億円である。
社長の辻村章夫氏をはじめ創業家は経営から退き、副社長だった前田和久氏が社長に昇格した。インテグラル側からは辺見芳弘氏が会長に就任するほか取締役3人を派遣し、経営の実権を握った。
イトキンの経営不振の原因は、百貨店を主戦場としていたことにある。ユニクロに代表されるカジュアルSPA(製造小売り)、海外のファストファッション、セレクトショップなどの台頭で、百貨店の衣料品の売り上げは激減した。2005年に3兆円あった百貨店の衣料品の売上高は2兆円にまで34%も減った。
2000年代初めに1500億円あったイトキンの売り上げは、15年1月期には952億円まで落ち込み、4期連続の赤字に陥った。そのため15年末には、「春物の仕入れの支払いが集中する2月を乗り切れないのではないか」とイトキンの資金繰りを懸念する声が百貨店業界に広がった。
ここで主力取引行の三菱東京UFJ銀行が動き、身売りを持ちかけた。当時社長の辻村氏ら創業家は、イトキンを潰さないために外部資本を受け入れることに同意。創業一族は総退陣することとなった。あと1年決断が遅れていれば債務超過となり倒産していた、といわれている。
最終的にインテグラルが買収したが、この間アパレルに融資した実績のないファンドまでが支援に名乗りを上げたという。こうしたファンドは、イトキンは有名ブランドを多数有しているため、規模を縮小して財務を健全化できれば高値で転売できると計算したのだろう。
1400店のうち地方百貨店など400店を閉鎖
イトキンは故辻村金五氏が1950年に大阪市船場で創業した「糸金商店」がルーツ。当時の船場は繊維産業の中心地で、繊維業者を糸屋と呼ぶ習慣があった。金五という名前から「糸屋の金さん」と呼ばれ、これがイトキンという社名につながった。
「クレージュ」や「ミッシェルクラン」など海外ブランドを導入し、デザイナーのコシノヒロコ(本名・小篠弘子)氏を育てたことで知られる。妹のコシノジュンコ、コシノミチコとともに「コシノ三姉妹」として有名だ。
コシノヒロコ氏とイトキンが合弁でプレタポルテの企画会社ヒロココシノインターナショナルを設立。その社長は、今回イトキンの社長となった前田氏が務めていた。
イトキンの経営危機は、販路を百貨店に依存するほかのアパレル企業にも共通する。大手アパレルは、いち早くブランドの見直しに乗り出していたが、イトキンは不採算ブランドの整理が遅れ、これが致命傷になった。
インテグラルは、28のブランドを21に集約する。1400店ある店舗も地方百貨店やアウトレット内を中心に400店を閉鎖してコストを削減し、ヒロココシノなどの有力ブランドは店舗を改装して競争力を高める。イトキンは百貨店の比重が7割を占めているが、百貨店での販売比率を下げ、「ららぽーと」などの都市型ショッピングセンター(SC)内の店舗のほか、インターネットでの販売を強化する。
インテグラルは3~5年かけて企業価値を高め、株式上場を目指すという青写真を描いている。
SC出店で先行したワールドは大リストラ
アパレル2強の1角のワールドは、イトキンに先立ち大リストラに乗り出した。ワールドは15年4月、銀行出身の上山建二氏が創業家以外で初の社長に就いた。上山氏は長崎屋を社長として再建させ、その後ぐるなびの副社長も歴任した。
上山氏は社長に就任して、わずか1カ月後に大リストラ計画を打ち出した。全店の15%に当たる400~500店を閉鎖。100あるブランドは10~15を廃止。全社員の4分の1に当たる500人の早期退職を募り、453人が応募した。
ワールドは婦人服の「アンタイトル」や紳士向けの「タケオキクチ」などのブランドを持ち百貨店を主力としてきたが、2000年代に他社に先駆けSCへ販路を拡大して成長を遂げてきた。いち早く百貨店依存から脱却したワールドは「先進的」と評された。
だが、SC内の店舗間競争が激化し、ブランドの同質化がこれに加わり、値引き販売が常態化した。ファストファッションに客を奪われ、ワールドの業績は低迷した。
イトキンは百貨店依存から脱して、SC内の店舗を強化する方針だ。しかし、SC進出で先行したワールドは大リストラに追い込まれた。果たしてインテグラルの再建策はうまくいくのだろうか。
(文=編集部)