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加茂田組に青春を捧げた元極道の手記(前編)

山一抗争と山口組分裂騒動の違い…アウトレイジではなかった昭和のヤクザがまとった「匂い」

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加茂田組での親子盃の様子(『烈俠外伝』より)

 三代目山口組で最強の組織といわれた加茂田組。その親分だった加茂田重政氏は、昭和ヤクザ史に名を残す大物俠客である。史上最大の抗争といわれる「山一抗争」においても一和会最高幹部として勇名を馳せるが、引退後は長きにわたり沈黙を守ってきた。

 その加茂田氏が昨夏、突如、自叙伝『烈俠 ~山口組 史上最大の抗争と激動の半生』を上梓し、大きな話題な呼んだ。そこには自身の生い立ちのみならず、長年憶測だけで語られてきた、加茂田組や山一抗争をめぐる真実が書かれていたのだ。

 さらに同書からビジュアル重視のバイオグラフィーとしてスピンオフしたのが、『烈俠外伝 秘蔵写真で振り返る加茂田組と昭和裏面史』である。本書では、加茂田氏ほか三代目山口組を支えた親分たちの貴重ショットや、加茂田組の面々の当時の様子、有名芸能人や地域住民との交流の模様など、今はなき「昭和ヤクザの実像」が収められている。

 また、加茂田組を支えた若者たちの生の声も読みどころだ。極道史上初・ダンプ特攻をした男や、部屋住みで男を磨き、抗争では道具を持って撃ち込みや護衛を行っていた男……彼らの言葉からは、当時のヤクザの考え方、生き方がリアルに伝わってくる。

 元加茂田組系二次団体若頭補佐の沖中東心氏も『烈俠外伝』に登場し、寄稿をしてくれた一人。沖中氏は、17歳で極道の世界に入り、18歳の時に加茂田組本家の部屋住みとなり、22歳をすぎる頃に山一抗争を迎え、「何箇所もの相手事務所に何回も拳銃を撃ち込みに行きました」(沖中氏談)という人物だ。

 そんな青春時代を加茂田組と共に疾走した沖中氏に、『烈俠』および『烈俠外伝』の出版に際しての思いや当時のエピソード、忘れがたき人々について、手記を寄せてもらった。それを3回にわたってお伝えする――。

親分の「山口組を出る」の言葉

 三十数年も前のことなのだが、今でも強烈に私の脳裏に焼き付いて離れない光景がある。場所は加茂田組本部の2階大広間。言葉に表せない緊張感と、殺気立った雰囲気に包まれていた。集まった大勢の舎弟や若衆を前に、親分の加茂田重政が宣言する。

「山口組を出る。山口組に残りたい奴は残ってもいい、ついてくる者は挙手しろ」

 迷う間もなく、全員が挙手した。両手を上げ、自分の思いを強く表す者も何人もいた。加茂田組が、加茂田組として山口組脱退を決意した瞬間だった。

 今、ヤクザ社会はまさに戦国時代の様相で、あまりに目まぐるしい変化に明日のことさえまったく予測できない状況が続いている。これは憂慮すべきことではあるが、残念なことに、しばらくの間はこの業界に静謐は訪れそうにない。

 ただ、体験者としてひとこと言わせていただくと、よく「山一抗争」(1984~89年)を引き合いに今回の山口組分裂騒動と対比させて論じられることがあるが、根本的にどこか違う気がしてならない。

 もちろん、ことの是非を言っているのではない。具体的に、どこがどうと指摘するのは非常に難しい。感覚的な話になってしまうのだが、ヤクザの根底にある性質、その「匂い」が、何か当時と違うのだ。

 古き良き時代……こんな使い古された言葉が的を射ているかはわからないが、我々の時代は良いも悪いも単純明快だった。ヤクザにも情緒的な単純明快さがあったように思えてならないのである。

 そうした匂いがあった。そして、決してアウトレイジではなかった。
 
 ヤクザ社会も時代の流れ……なのだろう。とにかく、多くの犠牲者を出した山口組と一和会の、あの壮絶な山一抗争のような痛ましい惨事にならないことを、心から祈るばかりである。

 さて、その山一抗争の一方の当事者である加茂田重政が率いた旧加茂田組を題材にした一冊が、『烈俠外伝』である。昨年7月に出版された『烈俠』に続く、加茂田組シリーズ第2弾ということになる。その『烈俠外伝』出版にあたり、私も一文を提供させてもらった関係から、その後の旧加茂田組のことを振り返ってみたので懐述する。

加茂田組事務所前でくつろぐ組員たち(『烈俠外伝』より)

20年ぶりの寿司屋で涙

 あれは、今から十数年前のことだ。久しぶりに神戸へ帰った私は、かつて加茂田重政が一家を構えた番町(神戸市長田区)へ一人で行き、ぶらぶらと街を散策したことがあった。

 1995年の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたこの街は、震災からの復興により様変わりし、昔の面影はあまり感じられない。
 
 本家の跡地まで来た。種種雑多な思いが、私の脳裏をよぎる……。この場所で、この本家前の道で、毎朝加茂田の親分を送り出し、また毎晩出迎えた。親分の飼っていた愛犬リキ、ジュリー、コロも、当たり前だがもういない。

 抗争の時は、本家への放火未遂事件もあったし、すぐ目の前のタバコ店の角で福井の若衆が銃撃されたこともあった。けれど、今はそんな物騒な事件が起こった場所とはとても思えず、清閑感さえ感じられた。

 ふと、その先を見ると、私は突然タイムスリップした思いに駆られた。なんと、「五月寿司」の看板があるではないか。当時、たまに行っていた寿司店が、変わらずに営業していたのだ。懐かしさのあまり、吸い込まれるように五月寿司の暖簾をくぐる。

「あっ」

 五月寿司のオヤジが、いきなり入ってきた私の顔を見るなり、びっくりした様子で小さな声を上げた。なんと約20年ぶりに訪れた私の顔を覚えていてくれたのだ。嬉しいことに、女将まで覚えていてくれた。店の中は、当時とまったく変わっていなかった。

 ビールを飲みながら、懐旧談に花が咲いた。だが、長い年月を経ての再会は、嬉しいことだけをもたらしてはくれなかった。ここで、姐さん(加茂田重政夫人=洋子さん)が亡くなられていたことを初めて聞かされ、私は不覚にも涙した。

 あれから、十数年――。

 まさか親分の自伝『烈俠』が出るとは、夢にも思わなかった。そのおかげで親分と再会でき、ご家族のクニちゃん(加茂田重政・長女)やノリ(加茂田重政・三男)とも再会できた。その折に、親分の愛用品のひとつを頂き、感激したことは今でも忘れられない。

 さらに私を感激させたのは、ご家族からお聞きした、今もって親分のお世話をしたいと名乗り出る元組員が後を絶たないという話だった。親分の親戚の方が経営されている喫茶店にも行った。そこには懐かしい顔がたくさんあって、「あー、あんちゃん覚えてるわぁ」との言葉を頂戴し、さらに私を感激させた。

 その足で、鵯にある加茂田組慰霊碑に行く。大きな慰霊塔の裏にはこう刻まれている。


世に一介の男子として生を受け
仁・義・礼・智・信
五条の道を弁え
任侠の極心を追求せり
然ろに加茂田一門の一人一人として
その命 はかなく散ろうとも
心魂永遠に不滅なり

 長い加茂田組の歴史の中には、志半ばで不慮の事故で倒れた花田章さん(花田会会長)、小野敏文さん(小野会会長)、丹羽勝治さん(二代目花田組組長)らがいる。泉下の客となられた諸先輩方に『烈侠』出版の報告をし、合掌したのだった。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」とは戦争においてよく言われる。我々加茂田一門は抗争後、さまざまな媒体で、あることないことを書かれ、侮辱され、長年にわたって忸怩たる思いを宿してきた。

 しかし、この『烈俠』という一冊によって、大方の無念は晴れたのだ。

 左様なことから『烈俠』、そして今回出版された『烈俠外伝』制作に携わっていただいた方々へは感謝の念が堪えない。

--中編に続く--

(文=沖中東心)

『烈俠外伝』(サイゾー)

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