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本多圭の「芸能ビジネス・ジャーナル」第1回

「旬が過ぎた芸人、テレビに出られない芸人をどう食わしていくかもテーマ」吉本興業代表取締役社長・大﨑洋氏

聞き手=本多圭
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「旬が過ぎた芸人、テレビに出られない芸人をどう食わしていくかもテーマ」吉本興業代表取締役社長・大﨑洋氏の画像1大﨑洋(おおさき・ひろし)。1953年生まれ。78年、関西大学社会学部卒業後、吉本興業入社。ダウンタウンのマネージャーなどを務め、2001年に取締役就任。05年専務取締役、06年取締役副社長、09年より代表取締役社長(写真は、吉本興業東京本部にて)。

 芸能取材歴40年以上のベテランジャーナリスト・本多圭が、芸能ビジネスに携わるリーダーや仕掛人たちに話を聞くインタビューシリーズがスタート。第1回は、吉本興業代表取締役社長である大﨑洋氏が登場。

 労働環境の改善、メディアの変革や国際化への対応、若手からベテランまで、抱えこんだ多数のタレントのマネージメントなど、様々な課題にどのように向かい合っているのか。松本人志、島田紳助といった、大﨑社長と縁の深いタレントたちへの思いとは?

 8年もの長きにわたり吉本のトップに立ち続けるお笑い界のビジネスリーダーの本音を聞いた。

――大﨑さんが社長に就任して何年たちましたか?

大﨑社長(以下、大﨑) 8年です。

――入社からは何年でしょうか?

大﨑 2年浪人しているんで、入社39年ですかね。

――社長が見てきた吉本興業のこの39年間の紆余曲折を教えていただけますか。いちばん印象に残っていることは?

大﨑 やはり東京・大阪の東証一部に60年間、上場していた会社を上場廃止(2010年)にしたことが、いちばん大きいですかね。

――社長自身が苦しんだ時期はありましたか?

大﨑 僕は、今でこそ社長になっていますが、入社順位もビリでしたし、何かしたら人事異動で飛ばされて、また何かしたら飛ばされて、というのをずっと繰り返してきましたから。

――人事異動で飛ばされるって、何をするとそんな厳しい処分になるんですか(笑)?

大﨑 いや、もともとアホというか、会社にとって必要のない人材だったんじゃないですかね(笑)。

――大﨑さんといえば、ダウンタウンをブレークさせた人ことで「敏腕」というイメージが強いですが、そうではなかったんですね。

大﨑 ダウンタウンと出会う前は、それこそ(明石家)さんまや紳助・竜介、のりお・よしお、ザ・ぼんち、B&Bとかが自分と同世代ぐらいでしたから、タレントとマネージャーの関係ではなくて、友達のようにタメ口で普通にしゃべったり、ケンカしたり、胸ぐらをつかみ合ったりしていましたね。大学を卒業して、マネージャーがどんな仕事をするかもわからないまま、タレントの横についているぐらいのイメージだったんで(笑)。入社して最初に笑福亭仁鶴さんの現場のマネージャーをしていたので、仁鶴さんに挨拶の仕方とか、タクシーの乗り方とか、名刺の渡し方とかをみんな教えてもらいました。

マネージャー時代の体験から労働条件の改善に

――ダウンタウン以前の成功体験にはどういうものがあったんですか?

大﨑 東京の担当になったことですかね。木村政雄さん(元吉本興業常務、現フリープロデューサー)が直属の上司で、「ウチの会社が東京に事務所をつくるんで俺が行くんやけど、大﨑も一緒に来るか?」と言ってもらったんです。東京に行けると思って「はい」と即答して、赤坂にワンルームの事務所をつくりました。ちょうど漫才ブームが始まる直前の1980年のことです。睡眠時間を削るようにして突っ走った漫才ブームのあのころ、というのが、最初の大きな契機です。

――漫才ブームに対応しながら、しっかりとそのブームを大きくしていくことに寄与されていたんですね。

大﨑 劇場を運営しながら漫才ブームと並走したことは、我ながらよくやれたなと思います。当時の吉本は大阪だけの会社でしたし、劇場で稼いでナンボの世界なので、劇場に出る芸人の出番を入れ替えたりして東京の放送局にブッキングするのはやってはいけないことだったんですよ。

――ものすごく忙しかったでしょうね。

大﨑 そのころからサウナで寝てましたよ(笑)。

――家で寝る時間もなかったんですね。

大﨑 なかったですね。それこそ何日も何カ月も睡眠時間が1~2時間になってくると、黄疸が出てきて、指紋がツルツルになってなくなるんですよ。3日間くらい高熱が出てぶっ倒れたこともありました。でも、世の中に出て働くということや、サラリーマンになるということがどんなことかもわかっていませんでしたし、ましてタレントのマネージャーが何をする仕事なのかもわかってなかったんで、本当に無我夢中で上司に言われたことを毎日こなしていました。

――相当に劣悪な労働条件の中にいたわけですね。

大﨑 そうです、当時はね。劇場は365日休みなしですし。放送局の人たちは、お正月の特番や生放送が終わったら休みを取ってハワイに行ったりもできるけれど、よしもとは劇場がありますから。今では法律違反でしょうが、そのころは休みなしで朝から晩まで働いていましたね(笑)。

――それが、現在のマネージャーはじめ社員の労働条件の改善につながっている?

大﨑 そうですね。労働条件を改善しようと決めて、いま徹底的に実行に移しています。もちろん、現場からは「そうはいっても、タレントさんが残ってるのに(マネージャーだけが)帰れません」とか「徒弟制度で覚えてこそのADやカメラマンや編集者や」とか、いろいろな声はありましたよ。だからトップダウンで決めていって、結果として現場の人間も増やしました。タレントさんにも「収録中ですけど、マネージャーがA君からB君に替わります」と言ったら、「今日日(きょうび)の時代、しょうがないな」と納得してもらったので、思いのほかスムーズに実現できましたね。

――現場の人材確保は重要ですね。

大﨑 そうです。パソコンで効率化できる仕事でもないので、契約社員の人とか、途中入社の人とかを入れて対応しています。

――有給制度についても改革を進めているそうですね。

大﨑 そうです。「休め、休め」と言っても、仕事が好きで、仕事に夢中で、家にいても仕事をしてしまう社員もいるんですよ。特に独身の男性社員とかだと、家に帰ってもしょうがないから夜中に会議をダラダラやったりしてるじゃないですか。それが楽しいからやるんでしょうが、それもダメとしました。夜の10時になったら、会社の電気を消すことにしました。さすがにまだ減点制度にまではしていませんが、自然にそういうふうになるようにしようとは思っています。

――芸能人の仕事についてはどうお考えですか。

大﨑 芸能人は個人事業主で社員ではないので、それはまた別の話です。会社と社員の雇用契約とは違います。ただ、タレントA君がいて、月額30万円の給料+レコードを出したら印税額を払いますよ、ということになれば、そこで雇用契約は成立している。そういう意味での労働者とはいえますね。

――吉本の場合、そういう契約にすることはないんですか?

大﨑 ないんですよ。アイドルなどの場合、事務所と専属実演家契約書を結ぶのが一般的ですが、お笑い芸人にはないんです。ただ、西川きよしさんなどのベテランとは「劇場に年間☓☓回出演してください。その分に対してはこのぐらい払います」という紙ぐらいありますが、よその芸能事務所が結んでいるような、いわゆる実演家契約書はありません。だから、ときどきうちの芸人が「会社と契約してへんからいつでも辞めれるし。なんやったら俺、吉本ちゃうし」などと冗談で言っていますが、その通りなんです。だから「あした辞める」と言ったら、「そうか」で終わる。

――契約書で縛っておかないと、売れ始めて事務所を出ていってしまうかもしれません。それに対してはある程度、自社にとどめる自信があるのでしょうか?

大﨑 そこは吉本に引っ張っておく力がなかったということになりますから、「彼らよりもっと売れるタレントを育てよう」とか、「引っ張る力をもっと持つように頑張ろう」とか、そういう考え方をする社内の空気がありますね。それがええか悪いかはわかりませんが。

――吉本芸人はよく「吉本は事務所がこんなに(マージンを)取るんだ。サンミュージックはこれだけなのに」などとネタにしています。その割には、ほかに移籍する人が少ない印象です。

大﨑 僕はよそがどういう支払い方をしているのか、ほとんどわかってないんですが、じゃあ実際に吉本を辞める芸人がいるかというといないので、それなりに適正配分をしているんじゃないかと思っているんですよ。

新規事業、その狙いと展望

――タレントとの関係は意外と前近代的ですが、会社としてはかなり先進的なことを次々と打ち出しています。社長に就任してから、どんな事業を立ち上げられました?

大﨑 まず、沖縄国際映画祭と京都国際映画祭、47都道府県住みますプロジェクト(「あなたの街に住みますプロジェクト」)、アジアにも住みますプロジェクト……。あと、なんやろな。ほとんど赤字やけどな(笑)。

――現段階で成功したかどうかの判断を下すのは時期尚早ですね。

大﨑 社長がやったやつがほとんど赤字というほうが、社員もやりやすいんじゃないですかね。これがぜんぶ当たっていたら、みんな黙ってしまう。陰で「社長が赤字ばかりつくって」とか言ってくれていたほうが、みんなもチャレンジしやすいし、まだ会社も潰れていないし、ええんちゃうかなと思っているんですけどね。

――その一方で、世間ではテレビ離れが進んでいます。吉本としては、今後どのような試みを考えているのでしょうか。たとえばAbemaTV、Amazon、Netflixなどのネット番組にも積極的に展開しています。

大﨑 吉本はそれこそ60数年間、テレビ局にぶら下がってやってきた会社です。テレビ局にぶら下がっている限りは食いっぱぐれもないし、お金をもらって日本中に芸人を宣伝してもらって、顔と名前が売れて、また劇場で回して日銭を稼いでという、すごく好循環で、すごくいい関係でやってきました。テレビというメディアに「バラエティ」というジャンルができて、漫才師の職場ができたのです。ただ昨今、いわゆるテレビ離れが進んできているなかで、ネットという新しいメディアができて、その新しいメディアに果たしてテレビの時代と同じようにバラエティというジャンルがあるのかないのか、なければどうつくっていけばいいのかを考えています。

 テレビに60数年間もお世話になって、これからもぶら下がっていこうと思いますが、新しいメディアでもチャレンジしておかないといけない。会社全体の芸人たちの死活問題ですから。その点では、会社を非上場にしたことで、いろいろとチャレンジしやすい状況にあります。なにが当たるかわからないので、とにかくバンバンかかわっていこうかなと思っております。

――古い考え方かもしれませんが、やはりテレビがメディアの王様で、ネットやVシネマ、舞台などはテレビに出られない人が活躍する二次的なフィールドという見方があります。大﨑さん自身は、メディアの関係性をどのように捉えていますか?

大﨑 僕としては、名前が売れて、テレビに出続けている人たちはいいんですが、テレビである程度活躍した後、年齢がいってお呼びがかからなくなった芸人たち、あるいは、なかなか売れなくてテレビに出られない芸人たちをどう食わしていくかが吉本という会社のテーマだと考えているんですね。

――なるほど。テレビに出られない芸人といえば、吉本はタレントなどを養成する吉本総合芸能学院(NSC)から多くの卒業生を出していますが、テレビで活躍できるのは一握り。彼らをどうするのかは考えていますか?

大﨑 縁があってウチの学校に来た子たちなので、実力の世界なのはもちろんだけど、なんとかしてあげたいという気持ちが強いです。実は、ついさっきも会議室で、テレビになかなか出られない芸人8人ぐらいを集めて、「何をしたい?」「こんなんしようか?」という会議を3時間、弁当を食いながらやっていたんです。その子たちに好きなことをさせて、それでなんとか食べていけるように、いまアイデアを練って頑張っているところです。「僕はもう43歳で子どもが2人いてるんですけど、先月の収入は3万円でした」みたいな芸人もたくさんいるんで、いろいろと話をして今日のところは全員納得して「次の会議はこうしましょう」と、前向きにやっていますよ。

――具体的には、彼らからどんな提案や意見があったんですか?

大﨑 いわゆる“漫才”ではそんなに面白くないんだけど、「僕は怪談話をすると日本一で、2年連続優勝してます」とか「アニソン(アニメソング)のDJをしたら、毎回1500~3000人集めます」とか「子どもに勉強を教えたらナンバーワンです」とか「バルーンアートができます」とか、そんなんがいっぱいいるんですよ。花月の演芸場だと、漫才が面白いか面白くないかの物差ししかないんですけど、小さい劇場でもネット上でも、彼らのスペースをつくれば何かしらの「場所」ができるので、そういうことをしようかといったことです。
(聞き手=本多圭/以下、後編に続く)

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