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経済で新しい時代を拓く――株式取引所設立に尽力した男たち(1)渋沢栄一編

帝国ホテル、アサヒビール…なぜ渋沢栄一は「日本最大の起業家」になれたのか?

文=編集部
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帝国ホテル、アサヒビール…なぜ渋沢栄一は「日本最大の起業家」になれたのか?の画像1『日本経済の心臓 証券市場誕生!』(集英社/日本取引所グループ)

 2018年は日本の近代化の幕開けともいえる明治維新から150年にあたる年だが、節目となるのはそれだけではない。日本経済の象徴ともいえる街・兜町にある東京証券取引所は、前身となる東京株式取引所を含めて今年で設立140周年を迎えた。

 集英社から出版されている『日本経済の心臓 証券市場誕生!』(日本取引所グループ)は、江戸時代から現代に至るまでの証券の歴史を膨大な史料で追いかけた1冊で、江戸時代の「堂島米会所」、明治時代の「東京株式取引所」、戦後の「東京証券取引所」の3つの“誕生”が軸となっている。

 この連載では、その3つの誕生の中から、日本に「株取引」をもたらした明治時代初期の「株式取引所設立」という出来事にフォーカスを当て、渋沢栄一、田中平八、今村清之助、五代友厚という4人のキーマンの生きざまを、『証券市場誕生!』の編纂を担当した日本取引所グループ金融リテラシーサポート部の石田慈宏氏のコメントとともに追いかけていく。

 第1回は日本資本主義の父として知られ、500社以上の企業の立ち上げにかかわった日本最大のアントレプレナー・渋沢栄一である。

理想主義者だった渋沢栄一、若い頃は役人に追われる身に…

 渋沢栄一が生まれたのは1840年のこと。生家は現在の埼玉県深谷市血洗島で、農業と藍染め染料を売る豪農であった。この家は地域最大級の農家で、父親が学問好きであったことから、栄一は『論語』の手ほどきを受けたほか、一族のうちで学者をしていた尾高惇忠について学問を修めている。

 1861年、江戸に遊学に出た栄一は尊王攘夷思想を抱き、高崎城の占領や横浜での外国人襲撃を計画して討幕を志す。この計画は惇忠の弟の懸命な説得によって中止になるが、栄一は役人から追われる身となってしまう。江戸で知り合った一橋徳川家の用人のとりなしで一橋家用人の家中になり、当主・慶喜の京都異動の後には家臣として出仕している。

 この若い頃の行動を見てもわかるように、渋沢栄一は信念を持ち理想を志す人物であったようだ。石田氏も、史料を追うなかで「“日本最大の経済人のひとり”のイメージが定着しているが、思った以上に理想主義者だと感じた。だからこそ、日本の経済の基礎やビジネスの基礎をつくり上げられたのでは」と語っている。

パリで見た「株式取引所」、そして政府を去る

 一橋家への仕官のなかで、栄一に大きな転機が訪れる。フランス・パリへの約1年半の留学である。

 パリで彼が見た景色は、まさに「理想」だったようだ。生まれや家の財産に関係なく、志があれば誰でも株式を通じて資本を集め、産業を興すことができる。そして、商業が多く興れば労働者は増え、社会全体の生活水準も向上する。

 また、株式取引所見学の機会は大きな感嘆をもたらす。事業を興さなくても、株式を買えばその事業に参加できる――その仕組みこそ、「日本に必要な制度である」と栄一は確信した。

 栄一は株式会社を「合本主義」と呼び、日本での定着を目指すことになる。この合本主義とは、他人同士が資本金や労力を出し合い、ひとつの事業を成し遂げようとするもので、当時の日本においては非常に革新的な制度であった。

 ただ、この制度を根付かせるためにはさまざまな仕組みが必要だった。最大の課題が「誰がいくらくらいお金を出資し、誰かが出資をやめるときに株式を譲渡する仕組み」――今でいうところの株式公開制度の仕組みづくりである。

 明治の世となり、栄一は政府に出仕。大蔵省三等出仕まで昇進し、合本法(株式会社制度)導入のために株式取引所設立に取り組むことになる。

 株式取引所設立の構想自体は1873年、士族・中村祐興らによる東京府知事への株式取引所設立の出願が最初だった。このとき、栄一ら推進派と司法省の玉乃世履の意見が対立し、条例の策定まではいかなかったという。なぜ、玉乃は首を縦に振らなかったのか。それは「国民を投機に巻き込むべきではない」という考えがあったからだった。

 その後、栄一は大蔵官僚として度量衡制定や国立銀行条例制定に携わるが、大久保利通や大隈重信との対立から井上馨とともに退官。その直後に設立に関与した第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の総監役に就任する(後に頭取)。このことから、栄一は実業界に身を置くことになる。

今村清之助との邂逅、株式取引所設立

 実業界で新たな一歩を踏み出した栄一は、やはり「株式会社制度が定着し、数多くの魅力的な株式会社ができてこそ、産業が進展する」と考えていた。

 当時の栄一の立場は、現在でいうところの「インキュベーター」(創業を支援する専門家)に近い。彼が設立にかかわった会社は王子製紙、七十七銀行、日本郵船、帝国ホテル、アサヒビールなど手広く、石田氏の指摘の通り、まさに「日本のビジネスの基礎をつくった人物」といっても過言ではないだろう。

 ただ、1870年代前半当時は上場して売買する株式会社がほとんどない状態だった。そんな折、横浜の両替商を従える今村清之助という人物が栄一のもとを訪れ、取引所設立の協力を求める。

 清之助たちが目指していたのは、公債取引所の設立である。栄一自身も「株式会社がない状況で、まずは公債の取引から始まるのではないか」と考えていたのだろう。最初は話が合わなかった2人だが、徐々に足並みを揃えることになる。

 早速、栄一は政府が公債取引所の設立に参加を望む財閥・三井組と協議を持つ。しかし、「銀行経営が今後の中心」と考えていた三井組は公債売買への関与を嫌がったほか、清之助率いる横浜組に対しても不快感を抱いていたようだ。

 そうしたこう着状態の雪解けは、1875年頃だったと推測できる。栄一の上司で同じく大蔵省を退官していた井上馨が政府に復帰。その井上を通じて、三井組の清之助らに対する不快感解消が進んだと思われる。

 そして、1877年12月26日。渋沢喜作を筆頭に栄一らが連名で発起人となり、東京株式取引所の設立認可を申請。同月28日に許可を受けた。栄一の悲願が果たされた瞬間といえよう。明治政府に提出された設立証書の控えによれば、発起人や場所は渋沢家と三井組に集中していたという。

 そして、1878年になってすぐに大隈重信を訪ねた栄一は、東京株式取引所設立の調整を行い、ロンドン証券取引所の規則を参考に定款や申し合い規則を準備。5月4日に布告された株式取引所条例によって、5月22日、あらためて設立免許を受けることになる。これによって、長らく夢であった株式会社組織の「東京株式取引所」が誕生したのである。

 さて、今回は渋沢栄一の道のりをたどってきたが、ほかに重要な役割を果たした2人の経済人がいる。今回も登場した今村清之助、そして清之助と同郷の田中平八である。

 第2回では、田中平八にフォーカスを当てる。石田氏が「“日本でもっとも早くビットコイン投資を始めた人”とたとえられる」と評するこの人物は、いったいどのような顔を持っているのだろうか。
(文=編集部)

※本記事はPR記事です。

BusinessJournal編集部

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