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新型コロナ:大相撲大阪場所、協会は感染リスクより大儀を優先…変わらない根本的体質

文=西尾克洋/相撲ライター
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大阪場所初日 協会あいさつする八角理事長(写真:日刊スポーツ/アフロ)

 現在、大相撲大阪場所の真っ只なかだが、日本相撲協会は今場所について3月1日、無観客での開催を決定した。他に目を向けると、政府による自粛要請を受けるかたちでプロ野球やJリーグが足並みを揃えて開催を延期し、宝塚歌劇団は一度観客を入れての公演を再開しながらも再度中止へと舵を切った。いずれも感染拡大のリスクを考慮しての決断といえるが、中止よりも無観客という決断を下した相撲協会のリスク管理は、果たして妥当といえるのだろうか。

 大阪場所は観客が誰も居ないなか、普段よりも少ない懸賞、関係者だけが見つめる館内、日ごろのルーティーンを行わない力士、館内に響く行司の声、力士の息遣い、砂を噛む音など、テレビ中継に映し出されるすべてが、いつもの場所とは大きく異なる。

 だが、残念なことに100キロにも満たない小兵力士の炎鵬や、大関が掛かる朝乃山といった人気力士の取組結果より、ニュースとして話題になるのは無人の客席に力士が走りこんだといったような、無観客ゆえのトピックだ。そして序二段の力士が発熱したといった、本場所を継続するうえで影響が出かねないニュースもまたクローズアップされている。

 熱戦を伝えるニュースよりもコロナウイルスに関連した物珍しいニュースのほうが人の目を惹くのは残念だが、世間の目がコロナウイルスに向かっていることを考えると仕方がないことだ。それでも取組関連の話題が注目される今は、力士が感染してはそれどころではないことを考えると、まだ幸せといえるだろう。

 相撲協会は感染のリスクがありながらも、本場所開催に踏み切った。果たして、この決断をどう捉えれば良いのだろうか。

 力士に対して毎日体温を測るよう指導しており、部屋ごとに報告を義務付けているし、エディオンアリーナに来場する報道陣も入館時に体温の計測が求められている。手の消毒ももちろん行っている。移動についてもタクシーを利用させ、裏門から来場させファンの出待ち・入り待ちを抑制している。力士のインタビューは支度部屋ではなく通路を出たところで柵越しにミックスゾーンのようなかたちで行っている。

大阪場所初日、理事長の挨拶

 こう見ると、開催に際してできる限りのことは実施しているように見受けられる。接触する人の数を極力減らし、ウイルス感染を抑えるための施策を行っている。また、感染しているか否かもチェック体制機能を働かせてもいる。感染予防も感染事後の対応もある程度行っているといって良いだろう。

 ただ、予防策については当然ながら完全ではない。1名でも感染者が出たならば本場所を中止するという前提のなか、低減策しか打てない状況での本場所開催は明らかにリスキーである。状況は刻々と変化することを考えていたのかは疑問がある。というのも本場所開催を決めたのが3月1日のことで、当時は大阪では数名しかいなかった感染者が、3月10日時点で73名まで拡大しているからである。開催決定から千秋楽まで3週間の猶予があり、この期間での大阪周辺のコロナウイルス感染拡大は予想できたはずだ。

 もしここで感染者が出たとしたら、どうだろうか。ここ数年不祥事を繰り返している相撲協会が判断を誤ったとなれば、世間の反応はある程度うかがい知ることができるだろう。これは単に感染者が出たからといって開催を中止にするだけで収束する話ではない。世間の信頼については回復途上という段階なのだ。ようやく騒動が一段落を迎え、新しいスター候補生達が明るいニュースを提供している。バラエティ番組にも出演し、世間に新時代の大相撲を訴求している今だからこそ、この決定はリスクに主眼を置くべきだったと私は思う。力士たちの土俵上での努力を、相撲協会の不手際で台なしにしてはならないのだ。

 開催を決定するのであれば、中止ではなく無観客での開催を決定した理由について論理的な説明が必要だ。専門家を交えて協議がなされたということではあるが、リスクがありながらも開催する論拠があるからこそ開催へと舵を切れたはずなのである。

 私は本場所初日に行われる理事長による挨拶の中で、この点について触れられることを期待した。審判部の親方衆と幕内の力士全員が集結しての挨拶はニュースでも取り上げられていたが、歴史に残る大きな意味があるものだった。以下はその一部である。

「古来から力士の四股は邪悪なものを土の下に押し込む力があると言われてきました。また横綱の土俵入りは五穀豊穣(ほうじょう)と世の中の平安を祈願するために行われてきました。力士の体は健康な体の象徴とも言われています。床山が髪を結い、呼出が柝(き)を打ち、行司が土俵をさばき、そして力士が四股を踏む。この一連の所作が人々に感動を与えると同時に大地を鎮め、邪悪なものを押さえ込むものだと信じられてきました。こういった大相撲の持つ力が、日本はもちろん、世界中の方々に勇気や感動を与え、世の中に平安を呼び戻すことができるよう、協会員一同一丸となり15日間全力で努力する所存でございます」

大義そのものに対して疑問符が付く結果に

 今回のような動乱を抑え、人々の拠り所になるような存在だからこそ、大相撲は今まで生きながら得てきた。世が乱れている今、大阪場所を開催する意味がある。

 私も以前、災害が起こった直後に行われた丹波巡業に足を運んだ際に、これと同じ話を大山親方が土俵上でされていたことを思い出した。復興の途上で横綱が四股を踏む中で「よいしょ」と観客が声を揃えたあの光景は、確かに相撲と地域の心が通う場面だったと思うし、相撲が持つ意味を認識できる機会だったことは間違いない。

 ただ、これはあくまでも相撲が持つ大義という話であって、コロナウイルスが拡大するなかでリスクを許容して開催することの意味を説明するものではない。つまり、大義とリスクはまったく別の話なのである。だからこそ、この挨拶の中で必要だったのは大義の話もさることながらリスクをどのように捉えたか、なぜ開催すると判断したか、ということだったのだ。

 もちろん大義も大事だし、相撲がそこにある意味について触れると、災厄があったからこそ大相撲を開催するということには理解が得られると思う。ただ、もし大義こそが開催に踏み切った理由だとすると、感染者が1名でも出たら中止というのは筋が通らない話だ。もしここで感染者が出たとしたら、相撲協会は感染という犠牲を払っても大義を優先させたということになり、大義そのものに対して疑問符が付く結果になってしまう。五穀豊穣や世の平安は有事の際にリアルタイムで祈らなくても良いのである。

 この挨拶について意地悪な捉え方をすると、大義に目を向けさせることでリスクがありながら開催に踏み切った理由についてグレイにしたとも考えられる。これはまさに、世間とのすり合わせを行わずに都合よく自分たちの論理を貫いてきた今までの相撲協会のやり方そのものといえるわけである。私がこの上なく残念だったのは、今回の協会挨拶で真に大事な説明を履き違えることによって、相撲協会が不祥事を経てまだ変わっていないと捉えられる結果になったことだ。

 開催と決めたからには、15日間誰も感染者を出すことなく千秋楽を迎えてほしい。だが、状況の変化に応じて柔軟な判断をしてほしい。目先の利益以上に大事なことに目を向ければ、適切な判断ができる。これは相撲協会のみならず、すべての組織にいえることだ。苦しい判断を迫られる今だからこそ、リスク管理の一環として「損して得を取る」姿勢を貫く勇気が必要ではないかと私は思うのである。

(文=西尾克洋/相撲ライター)

西尾克洋/相撲ライター

西尾克洋/相撲ライター

1980年生まれ。鹿児島県出水市出身。日本大学卒業後、2011年に相撲ブログ「幕下相撲の知られざる世界」を開始。2015年からライターとしてキャリアをスタート。様々なメディアで相撲記事を担当。主な著書は「スポーツとしての相撲論(光文社)」「はじめての相撲(すばる舎)」など。

Twitter:@NihilJapK

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