「Getty Images」より
著名な作家の小説や詩を鑑賞し、鋭い文化評論で視野を広げる。国語の授業というのは、私たちにとってそのような場だったはずだ。それが事務的な文書を読む訓練の場になるとしたら、恐るべき教育改革というべきではないのか。本当にそんなことになるのだろうか。
国語の授業で実用文を学ぶ時代に?
国語の授業で夏目漱石の『こころ』を読んだ記憶のある人が多いのではないか。大学の推薦入試の際に、自己アピールの文書に「趣味は読書」と書いてある受験生が目立った。そこで、面接の場で「最近はどんな本を読みましたか」と尋ねると、ほとんどの受験生が「夏目漱石の『こころ』です」と答える。他にどんな本を読んだかを尋ねると答えられない。突っ込んで聞いてみると、『こころ』も国語の教科書で読んだだけで、ごく一部しか知らないという。

これではとても趣味が読書とはいえないが、どんなに読書に縁のない人物でも、学校の国語の授業を通して文学にちょっとでも触れているというのは、とても貴重な経験なのではないだろうか。
高校2・3年生用の「現代文B」の教科書では、芥川龍之介や森鴎外、宮沢賢治、中島敦、井伏鱒二、萩原朔太郎など、文学史に名を刻む作家たちの作品が載っている。ごく一部にしても、読んだことがあるというだけでも親しみが湧くし、何かのきっかけでちゃんと読んでみようと思うこともあるかもしれないし、ちょっとした話題についていくことくらいはできるだろう。
だが、学校の国語の授業でほとんど文学に触れることがなくなり、契約書や取扱説明書などの読み方を中心に学ぶようになったら、ふだん読書をしない人は、文学にほとんど触れない人生を送ることになる。
それは非常に淋しいことである。それに加えて、実用文のような平坦な文章ばかり読むのでは、作者の言いたいことを読み取ったり、登場人物の心理を読み取ったりといった高度な読解の鍛錬が行われず、人の言うことやその背後の気持ちを読み取ることのできない読解力の乏しい人間になってしまうのではないか。
でも、まさか国語の授業が文学の読解から実用文の読解の場にシフトされるなど、あり得ないと思う人が多いかもしれない。だが、じつはその可能性が高まっているのだ。
大学入学共通テストで駐車場契約書が出題
昨年末、英語の入試問題の民間試験利用が白紙撤回され、国語や数学の記述式問題の導入が見送られたことで、大学入試改革はますます混迷を極めることになった。そのような状況下においても、入試改革は着々と進行している。