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破産から奇跡の復活遂げた「ハウステンボス」は、なぜ再び危機に陥っているのか

文=編集部
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ハウステンボス(「Wikipedia」より)

 長崎県佐世保市の大型リゾート施設ハウステンボス(HTB)創業者の神近義邦(かみちか・よしくに)氏が9月5日、がんのため佐世保市の病院で死去した。78歳。告別式は9月6日午前11時から、佐世保市早岐の早岐メモリードホールで行われた。喪主は次男公孝(きみたか)氏。

長崎県の町役場の職員から東京・永田町の高級料亭「一條」の専務へ

 神近義邦は一風変わった経歴の持ち主だ。1942年、長崎県西彼町(現・西海市)の生まれ。家が貧しかったため、地元の農業高校の定時制に進み、卒業後、西彼町役場に就職した。出向先の長崎県庁の地方課で、田中角栄の列島改造ブームに乗って西彼町の土地を買い占めていた老女と出会ったことが転機となった。東京・永田町にある高級料亭「一條」の女将・室谷秀だ。

 室谷は神近に土地の有効利用の相談をもちかけた。神近は観光農園への転用を提案。室谷は土地を提供し、資金の面倒を見ると約束した。神近は役場を辞めて、観光果樹園を始めた。設備に4000万円かかったが室谷からは一銭も送ってこない。石油ショックにより、不況で借金を抱えた室谷は支払い不能に陥った。送金がないため神近は工事代金を払えなくなった。金の催促に上京した神近に室谷は言った。

「娘婿の高橋に頼むしかない。彼に会ってください」

 室谷の娘婿はミネベア社長の高橋高見。その足で田園調布の高橋邸を訪れたが、けんもほろろ。追い返された。ひるむわけにはいかない。高橋邸を再訪して食い下がった。高橋は「キミ(神近)が一條の経営を立て直し、長崎に送金すればいいではないか」と言い放った。

 神近は高橋の提案を受け入れ、一條に専務として入った。神近は日給月給制を廃止。基本給に加え歩合給や賞与を支給する賃金体系に変更し、待遇改善を打ち出した。返す刀で遊休地を処分して借入金を減らした。一條はすぐに息を吹き返し、神近は未払いになっていた4000万円を回収した。一條の再建でみせた神近の非凡さに驚いた高橋は、神近をミネベアグループの親会社、啓愛社の役員に招き、グループの不動産を管理させた。

 次の転機は1979年に訪れる。初めてオランダを訪れた。オランダの海岸は海の生態系を壊さないように石で造られ、石の岸壁が海面より低い国土を荒波から守っていた。生態系を生かした国造りを目にした神近は「感動で体が震えた」と語っている。故郷の大村湾岸に生態系を生かした住空間をつくることを思い立ったのは、この時だ。帰国する飛行機の中で100万坪の土地に1000億円の資金を投下する構想をまとめた。

日本興業銀行の“中興の祖”中山素平・元頭取が後ろ盾

 それから2年。室谷と高橋の激励を受け、神近は長崎に戻ってきた。構想の実現に向け、地元財界に協力を呼びかけたが、反応は冷ややか。「大ボラ吹き」と笑われた。それでも、神近の心意気を買った地元財界の重鎮の個人保証で2億5000万円の資金を手にした。

 1983年、大村湾に面した入り江に「長崎オランダ村」をオープンした。風車と遊覧船と土産品店があるだけのささやかな船出だった。日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)の“中興の祖”と呼ばれた中山素平との出会いが「大ボラ吹き」を大化けさせることになる。中山は明治人らしく、郷土の発展に力を注いだ。中山自身は東京生まれだが、実家は長崎県島原半島の島原銀行の頭取の家系だった。

 長崎県の財界人の仲介で神近と会った中山は、その人柄を見込んで、一役買うことになった。中山が後見人となり1988年、ハウステンボスが設立され、4年後の92年3月、大村湾を望む土地に生態系とオランダの街並みを生かしたハウステンボスがオープンした。2200億円を投じ、東京ディズニーランドの約2倍の広さだった。

 中山にとってハウステンボスは地方再生の実験場だった。興銀は電力・化学、鉄鋼などの基幹産業に融資してきた。だが、80年代に入り大企業は株式市場から直接資金を調達するようになり、借り手がいなくなった。興銀、長銀(日本長期信用銀行=現・新生銀行)、日債銀(日本債券信用銀行=現・あおぞら銀行)の長期信用銀行3行は不動産融資にのめり込んでいくことになる。ハウステンボスは興銀がレジャー施設に本格的に融資する第一号となった。この融資がうまく行けば、新しい融資先を開拓できるという読みがあった。

 しかし、ハウステンボスのオープンはバブル崩壊と重なり、歯車が完全に狂った。開業から2年半あまりで入場者数は1000万人を超え、九州を代表する観光地となったが、バブル崩壊後の景気低迷の影響で入場者数は次第に減少した。膨大な初期投資で巨額の負債にあえいでいた。2000年、神近は社長を退任。ハウステンボスは2003年、会社更生法を申請した。負債総額2289億円という大型倒産となった。

 ハウステンボスは地方の夢想家と中央の大物財界人の出会いから生まれた夢のプロジェクトだ。その失敗はテーマパークというコンセプトがなかったことに起因する。神近が提唱したのは「エコロジー(生態系や環境の保全)とエコノミー(経済)の共存」という理想論だった。目指したのは生態系を生かした石でつくる街造り。4、5年で設備を更新して若年層のリピーター比率を高めていくテーマパークという発想が、そもそもなかった。

 2010年、旅行大手エイチ・アイ・エス(HIS)がハウステンボスを買収して傘下に収めた。HISの創業者である澤田秀雄がハウステンボスの社長に就任。園内に住み再生の陣頭指揮を取った。季節ごとにイベントを次々と導入。大規模なイルミネーションや花火、仮想現実(VR)技術を使ったアトラクションを打ち出した。経営再建した澤田は19年5月、社長を退任。HISの会長兼社長に戻っていった。

コロナ禍でハウステンボスは苦境に

 HISとハウステンボスを新型コロナウイルスが直撃した。ハウステンボスは2020年2月29日~3月15日まで閉園。翌16日から4月5日までは屋内施設を休園した。ハウステンボスグループの19年10月~20年3月期(上半期)決算の取扱高は前年同期比29.5%減の105億円、営業損益段階で8億円の赤字。ハウステンボスの入場者数は20.2%減の104万人。海外客数は35.5%減の5万人、宿泊者数は27.4%減の10万人に激減した。20年9月期の業積予想は「未定」とした。

 親会社のHISの19年11月~20年4月期(上半期)の最終損益は34億円の赤字(前年同期は49億円の黒字)だった。従来予想の8億円の黒字から一転して赤字となった。上半期が最終赤字になるのは2002年に株式を上場して以来、初めてだった。売上高は前年同期比8.9%減の3443億円。従来予想を307億円下回った。営業損益は14億円の赤字(前年同期は89億円の黒字)と同38億円ショートした。

 新型コロナウイルスの影響で世界各地で渡航制限や外出自粛により、海外ツアーが中止となり、日本人の旅行客の姿も消えた。コロナ感染が広がった20年2月~4月の3カ月間のHISの旅行事業の売上高は前年同期比27%減の1242億円、営業損益は40億円の赤字(前年同期は21億円の黒字)となった。

 これまで順調に業績を伸ばしてきたHISとハウステンボスはコロナの影響をモロに被った。

BusinessJournal編集部

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