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「偉人たちの診察室」第15回・和宮

精神科医が語る「皇女和宮のミステリー」…孝明天皇の妹君“入れ替え説”と“左手欠損説”

文=岩波 明/精神科医
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仁孝天皇の第8皇女、和宮親子内親王。有栖川宮熾仁親王と婚約していたにもかかわらず、「公武合体」の象徴として江戸幕府第14代将軍・徳川家茂に泣く泣く嫁がされた“悲劇の皇女”として語り継がれている。(画像は昭和8年に東洋文化協会から刊行された『幕末・明治・大正回顧八十年史』【Wikipediaに掲載】より)

 和宮親子(かずのみやちかこ)内親王は孝明天皇の異母妹で、明治天皇にとっては叔母にあたる人物である。彼女は、幕末の公武合体運動のなかで、江戸幕府第14代将軍、徳川家茂の正室として江戸に降嫁した。その後家茂が20歳の若さで急死した後には、仏門に入り静寛院宮と名乗った。

 和宮は1846(弘化3)年に、仁孝天皇の第8皇女として生まれた。仁孝天皇は和宮が誕生して間もなく崩御しており、兄である孝明天皇がその後継として即位した。

 夫となる徳川家茂、長州藩士で後に首相となる桂太郎も、和宮と同年の生まれである。和宮には15人の同胞がいたが、そのなかで成人したのは、孝明天皇のほかには、姉の敏宮のみであった。敏宮は皇族との婚約が決まっていたが、婚約者の男性が夭逝したため、生涯独身を通している。

 一般に和宮は可憐なうら若き女性ながら、犠牲的精神の持ち主として、厳しい運命に翻弄されながらも悲運に耐えた日本女性の典型として賛美されることが多い。

 和宮は1877(明治10)年、32歳の若さで死去した。死の数年前より彼女は脚気に罹患し、箱根の塔之澤で静養していたところ病状の悪化により亡くなり、死後は芝増上寺の徳川家の墓所に埋葬された。夫の徳川家茂の死因も脚気であったといわれている。

 脚気はビタミンB1の欠乏によって起こる疾患で、重症になると、心不全と末梢神経障害をきたして死に至ることもある。今日では脚気の原因は特定され患者数は減少したが、日本では、米を精製することが一般化した江戸において流行したため「江戸患い」と呼ばれ、大正時代には、結核と並ぶ二大国民病であった。

 米の胚芽には多量のビタミンB1が含まれているが、玄米を精米して白米にすることで大部分のB1は失われてしまう。江戸時代から明治、大正にかけては、おかずをあまりとらずに、白米ばかりの食事を続けることが多かったため、ビタミンB1欠乏症陥いる人が多発したのであった。維新後の日本軍においても、脚気により多数の死者を出している。

 戦後、徳川将軍家墓地改葬の際、徳川家の人々の遺骨の調査が行われた。この際和宮の遺骨も調べられ、身長は143.4cm、体重34kgと小柄な女性であったことが判明した。また彼女の左手の手首から先の骨が見つからなかったことから、生前なんらかの理由で左手首から先を欠損していたと考えられている。

 本稿を執筆するにあたり、武部敏夫著『和宮』(1987年、吉川弘文館)、辻ミチ子著『和宮〜後世まで清き名を残したく候〜』(2008年、ミネルヴァ書房)を資料として用いた。

島崎藤村『夜明け前』にも登場する、皇女和宮の妻籠宿での“幕末の一大イベント”

 島崎藤村の長編小説『夜明け前』(「中央公論」にて1929〜1935年に連載)には、和宮降嫁の状況が詳細に記載されている。

 1861年10月、和宮の一行は京都をたち、中山道を利用して江戸に入った。東海道を選ばなかったのは、公武合体の反対派による襲撃を恐れたためであった。公武合体に尽力した老中安藤信正は、水戸浪士らによって降嫁の翌年である1862(文久2)年1月15日に坂下門外で襲撃され、その後辞職している。

 和宮が通る沿道では、厳重な警備がしかれ、住民の外出が禁じられただけでなく、行列を高みから見ること、鳴り物を鳴らすことも禁止された。行列は警護や人足を含めると総勢3万人にもなったと伝えられている。『夜明け前』においては、小説の舞台である宿場町の妻籠を一行が通り過ぎる様が描かれている。まさに幕末の一大イベントであった。以下は『夜明け前』における描写の一部である。

「京都にある帝の妹君、和宮内親王が時の将軍へ御降嫁とあって、東山道御通行の触れ書が到来したのは、村ではこの大火後の取り込みの最中であった」

「和宮様御降嫁のことがひとたび知れ渡ると、沿道の人民の間には非常な感動をよび起こした。従来、皇室と将軍家との間に結婚の沙汰のあったのは、前例のないことでもないが、種々な事情から成り立たなかった。それの実現されるようになったのは全く和宮様を初めとするという。……今度の御道筋にあたる宿々村々のものがこの御通行を拝しうるというは非常な光栄に相違なかった」

「九つ半時に、姫君を乗せたお輿は軍旅のごときいでたちの面々に前後を護られながら、雨中の街道を通った。いかめしい鉄砲、纏、馬簾の陣立ては、ほとんど戦時に異ならなかった。……中山大納言、菊亭中納言、千種少将、岩倉少将、その他宰相の典侍、命婦能登などが供奉の人々の中にあった」

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中山道・奈良井宿(現在の長野県塩尻市奈良井)で開催された「皇女和宮御下向行列」の様子(写真:アフロ)

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江戸幕府第14代将軍の徳川家茂。長州征伐の途上、家茂は大坂城で病に倒れ、崩御した。享年21歳。和宮と結婚してわずか4年目のことだった。始まりは政略結婚だったが、夫婦は仲睦まじかったという。(画像は川村清雄による徳川家茂像【Wikipediaに掲載】より)

先代・徳川家定の正室・天璋院篤姫との対立と和解…島津家や朝廷に嘆願し、徳川の救済と慶喜の助命を願った和宮

 和宮降嫁の提案が最初に行われたのは、1858(安政5)年のことだったらしい。だがこの時点で和宮には婚約者がいたため、皇室側は当初は固辞したが、最終的には孝明天皇の決断によって幕府による攘夷を条件として降嫁が決定された。

 江戸時代の皇女の結婚に関する資料によれば、女帝を除く9代の天皇の皇女は72名になるが、結婚したのはわずか11名に過ぎない。またその嫁ぎ先としては、伏見、有栖川などの四宮家と、近衛、九条などの五摂家に限定されていた。このためこれらの諸家に良縁がなかった場合は、独身で生涯を過ごし、尼僧となる場合も多かったのである。

 1864(元治元)年に長州藩で政変が起こり、尊王攘夷派が政権を握ったため、家茂は自ら長州征伐に乗り出した。1865(慶応元)年5月、家茂は品川から海路で大阪へ向かった。1866(慶応2)年4月、大阪城に滞在していた家茂は体調を崩し、7月20日に逝去している。さらに同年12月には、兄である孝明天皇が崩御した。和宮は短期間の間に夫と兄という頼りになる家族2人を失ったわけである。

 江戸城における和宮が必ずしも幸福とはいえなかったことは、想像に難くない。宮中と江戸城内ではすべてのしきたりが異なっていることに加えて、京都から供の者を連れてきているとはいえ、周囲はいわば敵ばかりであった。このとき、幕府側とさまざまな交渉にあたったのは、随行していた岩倉具視であった。

 大奥では、先代の将軍の正室であった天璋院篤姫が実力者として君臨していた。和宮と天璋院は皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあってか不仲だったが、後には和解した。1867(慶応3)年に徳川慶喜大政奉還を行ない、その後に起きた戊辰戦争で徳川家は存亡の危機に立たされた。その際、天璋院と静寛院宮は、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力したことが知られている。

根強く残る和宮入れ替わり説…「和宮様は私の家で縊死なすったのです」

 作家の有吉佐和子は歴史小説『和宮様御留』(1978年、講談社)において、「和宮入れ替わり説」を提唱した。有吉氏は、江戸高田村の名主一家の縁者という女性から、「和宮様は私の家で縊死なすったのです。お身替わりになったのは、私の大叔母です」という話を聞いたのが、この小説を執筆するきっかけとなったと述べている。

 有吉氏によれば、当初は強固に降嫁に抵抗していた和宮が、家茂と結婚してからまるきり人が変わってしまったという。その例として次のエピソードがあげられている。

「これは、勝海舟の『氷川清話』に記されているものである。和宮、家茂、天璋院がそろって庭に出ようとした際、家茂の履物だけが、沓脱石の下に落ちていた。それを見た和宮は縁側からピョンと飛び下りて、自分の履物を下に置き、家茂の履物を石の上に置き直したという。」

 有吉は、降嫁を泣いて嫌がった和宮がこんな行動をするのは不自然であるし、幼少のころから足が不自由だったとも伝えられている和宮が、とっさに機敏な動作は取れないはずと主張している。ここから家茂に嫁いだ和宮は、和宮本人ではなく、替え玉だったのではないかと大胆な説を展開した。さらに遺骨から左手の骨が発見されなかったことも、その根拠として挙げている。

 この和宮入れ替わり説は興味深い話であるが、和宮が入内後も長く将軍の正室として多くの人の目に触れていることを考えると、信憑性は薄いように思える。

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左手首から先の手骨が不思議にも発見されず…和宮の死にまつわる不自然なミステリー

 一方、和宮の「失われた左手」については、遺骨の調査を行った人類学者の鈴木尚が、その著書の後書きで述べている。

「和宮の遺骨には、刃の跡その他の病変部は認められなかった。ただ不思議にも左手首から先の手骨は遂に発見されなかった」(鈴木尚『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』1985年、東京大学出版会)

 その原因として鈴木は、「残された可能性として晩年の和宮に、彼女の手がなくなるような何かが起こったか、あるいは秘されてはいるが和宮が何かの事件に巻き込まれたか、ということになろうか」と記している。

 さらに鈴木氏は、昭和30年代における発掘作業中に、匿名の女性から、「和宮が岩倉具視と投書者の祖母にあたる、宮の祐筆に若干の供回りをつれて京都に向かう途中、箱根山中で賊に遭い、防戦中、自害された」という内容の手紙が送られてきたことを述べている。

 和宮の左手欠損説は、最近完結したよしながふみのマンガ『大奥』(白泉社)でも取り上げられ、重要なモチーフとして用いられた。鈴木氏の指摘するように、和宮はその晩年になんらかの事件に巻き込まれ左手を失った可能性はあると思われるが、一方で生来、左手が欠損していた可能性も否定はできないと考えられる

 一方で、加治将一の小説『幕末 戦慄の絆〜和宮と有栖川宮熾仁、そして出口王仁三郎〜』(2014年、祥伝社)は、「明治天皇すり替え説」を背景として、この秘密の当事者のひとりであった和宮の死に関する謎を扱った一作である。主人公の歴史作家が一歩一歩真相に迫る様子は単なるフィクションとは思えない内容である。特に和宮の遺体は不自然な横向きであった点について、横死後長期間経過して埋葬されたためと述べている点には、かなりの説得力がある。

 和宮は幕末の動乱に巻き込まれた単なる薄幸の皇女であったのか、あるいは大きな陰謀の犠牲者であったのか? その答えを推察するには、明治維新の「立役者」たちの言動を再度精査することが必要なのかもしれない。

(文=岩波 明/精神科医)

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●岩波 明(いわなみ・あきら)
1959年、神奈川県生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。都立松沢病院などで精神科の診療に当たり、現在、昭和大学医学部精神医学講座教授にして、昭和大学附属烏山病院の院長も兼務。近著に、『精神鑑定はなぜ間違えるのか?~再考 昭和・平成の凶悪犯罪~』(光文社新書)、『医者も親も気づかない 女子の発達障害』(青春新書インテリジェンス)、共著に『おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線』(光文社新書)などがあり、精神科医療における現場の実態や問題点を発信し続けている。

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