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江川紹子の「事件ウオッチ」第198回

“手術後わいせつ事件”の最高裁判断に江川紹子が疑義…「疑わしきは検察の利益」でよいのか

文=江川紹子/ジャーナリスト
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最高裁
「科学的検討が不十分」として、乳腺外科医事件の審理を高裁に差し戻した最高裁だが……。(写真は最高裁)

 手術直後の女性患者の胸をなめた、として乳腺外科医が準強制わいせつ罪に問われている事件。最高裁第2小法廷(三浦守裁判長、菅野博之裁判官、草野耕一裁判官、岡村和美裁判官)は2月18日の判決で、懲役2年の実刑とした東京高裁判決を破棄し、同高裁への差し戻しを命じた。

 本件は1月、最高裁が下級審の判断を変更する際に法廷で検察官・弁護人双方の意見を聞く「弁論」の手続が行われた。そのため、判決が高裁判決を破棄したことに意外性はない。しかし、自ら結論を出す「自判」をせず、高裁に差し戻した理由には首を傾げざるを得なかった。

「せん妄はアルコールによる酩酊と同様」との検察側証人の証言は、最高裁により否定された

 この事件では、

(1)被害を訴えるA子さんの証言は、麻酔の影響などによる「せん妄」である可能性
(2)A子さんの胸から採取した微物の警視庁科捜研の鑑定の信頼性

 が大きな争点となった。

 一審の東京地裁は2つの争点について、綿密な証拠調べを行い、無罪とした。検察官控訴を受けて行われた控訴審で、東京高裁は、(1)に関してさらに証拠調べを行うとして、検察・弁護側双方が推薦する専門家証人の証人尋問を実施。判決では、国際的な診断基準を用いて判断すべきとした弁護側証人を排し、せん妄をアルコールによる酩酊と同様に考える独自の手法を披瀝した井原裕・獨協医科大教授の証言に基づいて、A子証言はせん妄による幻覚ではなく、現実の体験と認定した。これが有罪判断の最大の根拠となった。

 上告審で弁護側は、複数の専門家による意見書を提出し、井原証言に反論した。弁論でも、「彼(井原氏)の意見が『科学的に信頼される方法』に依拠していないことは明らか」として、その証言は科学的証拠としての価値がまったくない、と断じた。

 一方、検察側は井原証言を支持する他の専門家を見つけることはできなかったようで、弁論でも「井原医師はせん妄の専門家ではないが、せん妄に関する豊富な臨床経験を有している」などと、信用性の高さを主張するに留まった。

 最高裁判決は、「井原の見解は医学的に一般的なものではないことが相当程度うかがわれる」と、いささか持って回った表現ながら、事実上、井原証言の信用性を否定。この証言に基づいて、被害の訴えはせん妄による幻覚である可能性を否定した高裁判決を批判した。

 争点(1)については、これで勝負がついた、といえる。つまり、A子証言に基づいて、被告人は胸をなめるなどのわいせつ行為を現実に行った、とした検察側の主張に、大きな疑義が生じたことになる。

 裁判所が被告人を有罪とするためには、検察側が「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の有罪立証」をしていなければならない。被告人は無罪を証明する必要はなく、「合理的な疑い」が生じれば無罪となる。少なくとも、建て前上はそうなっている。いわゆる「疑わしきは被告人の利益に」がこれである。

 検察の主張の土台に疑義が生じた以上、最高裁は無罪の結論を出すことができたはずだ。

科捜研技官の鑑定実験ノートには、多数の書き換え・書き足しの痕跡が

 ところが最高裁判決は、せん妄の可能性を認め、高裁判決を批判した後、こう続く。

〈もっとも、アミラーゼ鑑定及びDNA定量検査の結果により、A子の左乳首付近に被告人のDNAが大量に付着していた事実が認められれば…A子証言の信用が肯定され…(有罪とした)判決に影響しないとみる余地がある〉

 要するに、検察側主張に疑義は生じたが、まだ有罪を維持する余地があるのだから、高裁でもう一度審議すべし、というのである。

 地裁、高裁、最高裁を通じた審議で、十分な有罪立証ができなかった検察側に、第4審でもう一度機会を与えようというに等しい。これでは、「疑わしきは被告人の利益に」ではなく、「疑わしきは検察の利益に」「疑わしきは被告人の不利益に」ではないか。

 しかも争点(2)、すなわち最高裁が問題にする唾液の付着を調べるアミラーゼ鑑定や、微物内に含まれるDNAの量を調べる定量検査については、一審で検察・弁護側双方が専門家証人を繰り出し、主張・立証はすでに十分なされている。最高裁にも、弁護側から複数の科学者による意見書が提出された。最高裁は、差し戻した高裁で何をやれというのだろうか。できることは、双方の1審での主張の補充程度だろう。

 そもそも科捜研は、鑑定に使ったDNA抽出液の残りを廃棄し、定量検査に関するデータを消去しており、再鑑定を行って科捜研鑑定を検証することができない。色調の変化で判断するアミラーゼ鑑定も、写真などの客観資料は残されていない。

 DNAの量に関する検察側の根拠は、科捜研技官が鑑定のプロセスを記録した実験ノートとして使っていた「ワークシート」に書かれた数字とその技官の証言だけだ。ところが、このワークシートは鉛筆で書かれ、そのうえ消しゴムで消して書き直した痕跡が、法廷で確認されただけで9箇所もあった。それ以外にも、後から書き足したと思われる記述も認められた。

 このような鑑定が行われ、それが司法の場で検察側の有罪立証に使われ、有罪判決の根拠にもされかねない状態にあることは、少なからぬ科学者に衝撃を与えた。

 1審で弁護側証人となった黒崎久仁彦・東邦大教授(法医学)は、証言のなかで「背筋が凍るような気持ちになった」と述べた。また、ゲノム編集の研究などで知られる東大医科学研究所の真下知士教授(動物遺伝学)は、弁護人が最高裁に提出した意見書のなかで、次のように述べている。

〈犯罪が行われたかどうかを証明する、関係者の人生を大きく左右する実験が、冤罪を意図的に生み出すことすら可能な状態で行われているという現状は、研究者としても、一国民としても、驚愕を禁じ得ず、強い抗議の意を表する〉

「科学的に信頼される方法」とはなんなのか…という問題について、司法は正面から向き合うべき

 こうした鑑定方法を疑問視し、鑑定結果はA子証言を補強できず、被告人のわいせつ行為を推認させるものでもない、としたのが一審の東京地裁だった。一方、鑑定結果が検証不能だからといって、その証明力は減らず、科捜研技官は経験も技量も十分だから信用してよい、としたのが東京高裁の控訴審判決である。

 弁護側は最高裁の弁論のなかで、「最高裁は『科学的に信頼される方法』とは何かを、今こそ示すべき」と求めたが、今回の判決では、それへの言及もなかった。わずかに、手順を一部省いた科捜研のDNA定量検査の手法について2点ほど控えめな疑問を挙げてみせたのみである。

 被告人の乳腺外科医が逮捕されたのは2016年8月。それからすでに5年半の時間が経過した。これ以上司法決着を長引かせ、いつ終わるかわからない裁判の被告席に留まらせ続けることが、どれだけの負担を強いるのか、最高裁の裁判官たちにはまったく関心がないようだ。

 最高裁は、肝心の点で判断を避け、結論を先送りして、高裁に委ねた。最高裁が役割を放棄した以上、高裁は司法の責任において、司法における「科学的な証拠」とは何か、という問題に正面から向き合ってほしい。

 先の真下教授は、前述のような科捜研の鑑定に基づいた検察側の立証について、「被害者にとっても被告人にとっても不幸なことである」としたうえで、意見書を次のような言葉で結んでいる。

〈今後、このような不十分な科学的検証が二度と起きないように、科学者としても一国民としても切望する〉

 国民の1人として、私も強く切望している。

(文=江川紹子/ジャーナリスト)

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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