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『青天を衝け』の岩崎弥太郎が感じたシンパシー…土佐藩の地下浪人と三菱商会の数奇な運命

文=菊地浩之
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岩崎弥太郎といえば、日本の経済発展に大きく寄与した三菱財閥の創始者で、“巨利”のイメージがあるかもしれない。しかし身分の低い生まれだったため、子どものころは貧しい生活を余儀なくされたという。(画像はWikipediaより)

土佐藩の地下浪人の出で、“身分が低い田舎モン”だった岩崎弥太郎

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』に、ついに三菱財閥の創業者・岩﨑彌太郎(1835〜1885年/以下、岩崎弥太郎と表記)が登場する。演者は8代目・中村芝翫(しかん)だそうだ。

 そこで、弥太郎ってどんな人だったのか、再確認しておこう。

 岩崎弥太郎は天保5年12月11日生まれ。天保5年は西暦に換算するとおおむね1834年なのだが、弥太郎は12月生まれなので、西暦では翌1835年1月9日にあたるそうだ。弥太郎は渋沢栄一(演:吉沢亮)の5歳年上なのだが、演者の中村―吉沢は29歳差。実際は弥太郎のほうがちょっと先輩だっただけなのだが、『青天を衝け』では親子ほど貫禄の違う人物に描かれるのだろうか。

 話はそれたが、弥太郎は土佐国安芸(あき)郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に地下浪人(じげろうにん)岩崎弥次郎の長男として生まれた。

 阪神タイガースがキャンプをはる、あの安芸市である。高知市から35kmも離れており、東京でいえば、だいたい新宿―八王子間に相当する距離である。ネットで調べると徒歩で8時間かかるそうだ。江戸時代の人間が倍の早さで歩いたとしても4時間かかる。2010年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』では、高知市内にやってきた弥太郎(演:香川照之)が、坂本龍馬(演:福山雅治)に遭遇する場面がよく見られたが、そう滅多やたらには高知市内にまでは出向かなかったのではなかろうか。

 まあ要するに、土佐藩士からすると、弥太郎は田舎モンだったのだ。しかも身分が低かった。

 土佐藩には上士(じょうし)、下士(かし)という厳しい身分制度があり、岩崎家は下士の最上位に属する郷士だった。しかも、弥太郎の祖父・弥三郎が郷士株(=郷士の権利)を売り払ってしまい、武士身分を失った「地下浪人」となった。弥太郎の不撓不屈(ふとうふくつ)の闘志は、身分の低さから来る差別的な待遇に反発して生まれたのだという。

勉学優秀なる岩崎弥太郎、江戸に遊学し、昌平黌教授の私塾に学ぶ

 しかし、弥太郎を成功に導いたものは闘志だけではなかった。

 弥太郎は、そのイカツイ風貌から、ハッタリと強気一辺倒の性格であの三菱財閥を創り上げていったのだと思われがちだが、当時の土佐では3本の指に入る秀才だった。藩主から褒賞されたことを契機に、江戸に遊学し、昌平黌(しょうへいこう)教授・安積艮斎(あさか・ごんさい)の私塾に学んだ。今でいえば、東京大学名誉教授主催の勉強会に参加するようなもので、それだけ優秀だったということだ。

 ところが、父・弥次郎が庄屋とケンカして重度の打撲傷を負い、弥太郎は帰郷を余儀なくされる。さらに父が訴訟に負けたため、弥太郎は憤懣のあまり、役所の壁に役人を侮蔑する落書きをして、獄に繋がれてしまう。

 一説によれば、弥太郎は、同房の囚人から算盤・算術を教えてもらい、その後の人生で大きく成功するきっかけとなった(後日、この囚人の遺族に多額の金品を贈呈した)という。

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幕末の土佐藩士・吉田東洋。東洋が開いた少林塾に岩崎弥太郎が入門、ここでの後藤象二郎や板垣退助との出会いが弥太郎に新たな飛躍の道を切り拓いた。(画像はWikipediaより、高知県立歴史民族資料館所蔵)

岩崎弥太郎、吉田東洋に認められ、開成館長崎商会で外国人相手に大活躍、土佐藩家老格に大出世す

 当時の土佐藩家老は吉田東洋(『龍馬伝』では田中泯)。人材登用に積極的で弥太郎も吉田に見いだされて出世の糸口をつかむが、吉田は暗殺されてしまう。しかし、吉田の甥・後藤象二郎(『龍馬伝』では青木崇高)に才能を買われ、弥太郎は開成館(かいせいかん)長崎商会の主任を任じられた。

 実は、この開成館こそが三菱財閥の母体なのである。

 開成館とは、吉田東洋が掲げた富国強兵・殖産興業を推進すべく設立された、土佐藩の貿易商社である。紙、樟脳(しょうのう)、砂糖、茶、鰹節など土佐の産物を販売し、その代金で軍艦や武器を購入することを目的としていた。象二郎が統轄していたのだが、交際や遊興で借財がかさみ、弥太郎はその尻ぬぐいとして派遣されたという。

 開成館は貿易商社だったので、駐留外国人を相手にするのだが、弥太郎は外国人からめっぽう信頼された。他藩に頼まれて案件を処理するほどだった。

 弥太郎は外国人をたぶらかすことがうまかったという説もあるが、私見では弥太郎が外国人にシンパシーを感じていたため、外国人からもほかの日本人とは違うと思われたのだろう。

 浦賀に来航したペリーは当時の瓦版で赤鬼のように描かれていた。日本人にとって欧米人は異物以外の何者でもなく、できればかかわりたくなかった。しかし、その技術と輸入品を手にするためには交渉しなければならない。ゆえに陰ではさんざん罵倒していたに違いない。それは、土佐藩における弥太郎の境遇と同じだった。

 土佐藩士にとって弥太郎は身分の低い田舎モンで、能力さえなければ、席を同じくするような人物ではなかった。弥太郎が高知市内に大きな屋敷を買うと、藩の古老が「岩崎が出世するのを見るくらいなら、長生きなどするものではない」と語ったほど忌み嫌われていた。そんな弥太郎は、外国人と自分の境遇を重ね合わせたのではないか。

 弥太郎は開成館で大活躍して異例の出世を遂げ、慶応3(1867)年11月に土佐藩の新留守居役(しんるすいやく)に抜擢された。新留守居役とは、吉田東洋の藩政改革で設けられた新たな家格で、上士の末席に位置する。つまり、地下浪人の子に生まれた弥太郎が、上士に引き上げられたのだ。さらに明治3(1870)年には土佐藩少参事(しょうさんじ)に昇進。江戸時代の中老に相当する「もうすぐで家老」「ほぼ家老」にまで上り詰めた。

岩崎弥太郎、藩営商社・開成館大坂商会を押し付けられ、1873年、三菱商会が誕生す

 話は前後するが、弥太郎が活躍した開成館長崎商会が明治元(1868)年閏4月に閉鎖され、弥太郎は開成館大坂商会に転勤したのだが、明治政府は中央集権化を徹底させるため、各藩の経済的基盤を取り上げようとして藩営商会の廃止を通達。開成館大坂商会も廃止の対象となる。

 これに対し、土佐藩の最有力者・後藤象二郎と板垣退助は、弥太郎と協議して開成館大坂商会の存続を図り、土佐藩から名目上分離して独立させることを決定。明治3(1870)年10月9日、「九十九(つくも)商会」という廻漕業(海運業)に衣替えした(この名称は高知県下の九十九湾に由来する。ちなみに、この日が三菱グループの創業日になっている)。

 翌1871年、廃藩置県で土佐藩が解体されると、板垣・後藤ら旧土佐藩首脳は弥太郎に九十九商会を払い下げようとした。弥太郎は政官界への転身を考え、いったんはこれを断るが、最終的には受け容れ、1872年に「三川(みつかわ)商会」と改称。さらに1873年に社名を「三菱商会」と改めた。三菱グループの社章が、土佐藩主・山内家の家紋「三つ柏」と岩崎家の家紋「三階菱(さんがいびし)」の合成であることは有名である。

 同時期に明治新政府主導で三井、鴻池、小野組等の富商が出資して、巨大海運会社・日本国郵便蒸気船会社が設立され、三菱商会と熾烈な競争を繰り広げた。

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三菱グループの社章は、土佐藩主・山内家の家紋「三つ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わせたもので、明治43年に現在の三菱マークになった。
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三大財閥のひとつ、三菱財閥は岩崎弥太郎によって設立された。NHK大河ドラマ『青天を衝け』の10月24日放送回では、歌舞伎俳優の中村芝翫演じる岩崎弥太郎が初登場。「似すぎ」「ご本人?」と話題になった。画像は1920年に撮影された、丸の内の三菱財閥本社。(画像はWikipediaより)

三菱商会、国の海運業者育成の対象となり、日本近海の航路を独占す

 1874年の佐賀の乱の鎮圧、台湾への出兵で、明治新政府は軍需輸送を外国の海運会社に要請するが、中立を理由に断られてしまう。そこで、半官半民の日本国郵便蒸汽船会社に要請するが、消極的な姿勢を示したため、政府首脳は激怒。軍需輸送を三菱に要請し、三菱は全力を挙げて政府に協力した。

 明治新政府の事実上のトップである内務卿・大久保利通(演:石丸幹二)は、いざというとき、外国の海運会社や日本国郵便蒸汽船会社がアテにならないことを悟り、国内の海運業者育成を企図(俗に「海運三策」といわれる)。その対象として三菱を選んだ。

 1875年、政府は日本国郵便蒸汽船会社を解散させ、その所有汽船を三菱に無償交付し、海運施設・倉庫等および従業員・船員を継承。事実上、三菱に日本国郵便蒸汽船会社を吸収合併させた。三菱は政府から制約を課される一方、充分な支援を受け、「政商」と呼ばれるようになる。

 こうした援助を受け、三菱が海外にも航路を拡げると、外国の海運会社との熾烈な競争が始まる。弥太郎はみずからの給料を半減し、幹部の月給の3分の1を減給して大幅に運賃を切り下げ、荷主に有利な金融方法を編み出して、これに勝利。外国の海運会社は三菱と競合する航路から撤退した。三菱は日本近海の海運業を独占し、莫大な利益を手にした。

 しかし、三菱をひいきとする大久保利通が暗殺され、大隈重信(演:大倉孝二)が「明治十四年の政変」で失脚すると、三菱へのバッシングが強まる。

 明治新政府は三井等の反三菱派の実業家を糾合し、1883年に共同運輸会社を設立。共同運輸会社は三菱とことごとく競合する航路を設定し、両社は熾烈な値下げ合戦を行い、両社の共倒れが危惧されるに至った。

 この激闘がピークを迎える1885年2月7日、弥太郎は胃ガンにより死去した。享年50歳。弥太郎の死後、両社は共倒れを危惧して同年9月に合併し、日本郵船会社(現在の日本郵船)を設立した。

(文=菊地浩之

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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