なぜ“三菱財閥”は再結集できた?愛された岩崎家当主と、遠ざけられた三井家当主の戦後史
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三菱は大きくなりすぎた
住友グループで住友吉左衛門が大株主となり、大倉喜七郎が大倉財閥の再編成を目論んでいる時、三菱グループは岩崎家の手に届かない存在になっていた。1956年当時の各グループ直系企業の株式発行総数を以下にまとめてみよう。
三菱グループが群を抜いて大きくなっていることがわかる。三菱:三井:住友の比率が5:3:2くらいになり、大倉にいたっては住友の10分の1くらいのスケールしかない。7社合計した発行株数が、三菱グループの1社平均より少ない。規模が小さかったから、大倉喜七郎は財閥の再編を夢見ることができた(=傘下企業の急成長によりその夢が頓挫した)のだ。
・三菱 21社 10億858万1000株 (1社あたり4802万8000株)
・三井 18社 5億9715万5000株 (1社あたり3317万5000株)
・住友 14社 4億6480万株 (1社あたり3320万株)
・大倉 7社 4735万株 (1社あたり676万4000株)
なぜこんなに三菱グループが突出して大きくなってしまったかといえば、三菱が重化学工業に重点を置いていたからだ。
戦前の三井・三菱・住友財閥は、貿易・加工業・素材産業ですみ分けしていたという噂がある。戦時中の日本は、戦争に勝つためにまず加工業に重点的に支援し、次いで素材産業に力を入れた。三井財閥は親米的で重工業を傘下に持たないので、軍からにらまれたという。
その結果、三菱が三井を追い抜き、住友が三井を切迫するほど急成長を遂げたのである。その上、三菱・住友はグループを大きくすることで個々の企業も成長していく戦略をとったのに対して、自由主義の三井は「みんな勝手にやったらイイ」と放任した結果、団体戦で後手に回ってしまったのだ。
三菱の本社復興構想
それでもなお、三菱グループには「御家大事」「年功序列」の気風があふれていた。つまりは旧財閥本社のOBたちが隠然として影響力を持ち、岩崎家を尊重していたのだ。
旧財閥本社のOBたちは、組織的に岩崎家と財閥本社役員の復帰を考え、実行した。
三菱地所は「丸の内の大家サン」として有名だが、戦前はその半分くらいは三菱本社(財閥本社)が所有する土地だった。ところが、財閥解体で本社が解散に追い込まれたので、新たに2つの不動産会社(陽和不動産、開東[かいとう]不動産)を設立して、本社が所有する不動産を継承した。
ところが、この不動産会社が買い占めに遭ってしまった。そこで、三菱グループがカネを出し合って、高値で株式を買い戻して事なきを得た。丸の内の土地が人手に渡ってしまっては大変と、この2つの不動産会社を三菱地所に吸収合併させた。三菱地所としては万々歳であるが、本社の土地にはいらない老人たちがくっついてきた。
それまで三菱地所は会長職が空席だったが、会長に元三菱本社常務・石黒俊夫が就任した。ほかにも監査役に元本社常務・鈴木春之助、相談役に元三菱銀行頭取・加藤武男、元本社専務・永原伸雄、そして、取締役に弥太郎の直系の孫・岩崎彦弥太(ひこやた)が就任した。いわば、三菱地所の一角に旧財閥本社OBが間借りして、あたかも本社が復活したような構図となったのだ。
現在、三菱グループには三菱金曜会という社長会があるのだが、その社長会をつくって初代トップ(世話人)になったのが、三菱地所会長に就任した石黒俊夫なのだ。
しかも、石黒は人脈に恵まれていた。三菱は年功序列なので、終戦後の三菱重工業・三菱電機・三菱鉱業の社長には石黒の同期入社が揃っており、彼らの支持を得やすかった。とはいえ、企業を抑えるには、結局はカネが物を言うのだが、三菱銀行は元頭取・加藤武男が隠然たる影響力を発揮していた。石黒の入社時の配属先は銀行の京都支店だったのだが、その支店長が加藤だったので、石黒が加藤に物事を頼みやすかったのも有利に働いた。
旧財閥本社の土地を継承した会社に岩崎家の当主を迎え、その会長が社長会を主催してグループ企業に号令する――石黒の構想はうまくいったが、石黒―加藤コンビが1964年に死去し、岩崎彦弥太が1967年に死去すると、三菱地所の特異性は忘れられてしまう。結局、人的な支配は、それを担う人間のリタイヤで終了してしまうのだ。
三井では起こらなかった財閥復活の動き
「御家大事」で再結集しようとする三菱に対して、三井にはそんな気運がまったく盛り上がらなかった。
三井財閥のオーナー・三井一族は11家から構成されていた。三井家の事実上の祖である三井高利(たかとし)は子だくさんで、その子どもたちが分家を成し、増減を繰り返して明治以降は11家に落ち着いた。
本家の三井八郎右衛門サンは、静かな性格の中にも日本一の財閥を背負っていこうとする責任感をたたえていたようだが、分家の方々にはそんなものはない。三井のサラリーマンのトップは、株主対策(=三井家からのクレーム対応)におおわらわ。三井を退社した後、日本銀行総裁、大蔵大臣を歴任した池田成彬(せいひん)は、三井のトップだった時は自分の力の7~8割を三井家対策に使ったと述懐している。
そんな訳だから、財閥解体で三井家の支配力から解き放たれると、サラリーマン経営者たちは生き生きと仕事を再開した。
一方、三井家の人々は、終戦後に創設された財産税という重税に悩まされた。岩崎さんや住友さんは、旧財閥本社OB、グループ企業のトップの支援があり、そこまでは困らなかったらしい。しかし、三井グループの経営者は一切支援の手を伸ばさなかった。三井家の窮状なんか見て見ぬふりである。
一部で、グループ各社に、戦前に役員を務めていた三井11家の当主をそれぞれ引き取って、顧問や相談役として遇してはどうかと提案があったらしい。ところが、各社の反発が強く、大反対を受けて頓挫。三井不動産が三井八郎右衛門を相談役に迎えたくらいしか実現しなかった。
そこで、対案として考えだしたのが、「三井」という社名(商号)、「丸に井桁(いげた)三(文字)」の商標の使用料を集めて、三井家の人々に還元しようという案である。これには、旧財閥本社OBの方々も賛同し、各社を説得に回って実現にこぎつけたという(筆者は10年くらい前に、三井グループの公益財団法人の方から、その習慣がまだ続いていると聞いたことがある)。
こんな逸話があるくらいだから、財閥の復活はおろか、再結集もできなかった訳である。1960年代になって、三菱・住友の再編がうまくいって、三井も再結集しないと乗り遅れるとあわてて再結集に動いた次第だ。
三井は「先生抜きのゼミ同窓会」
当時、再結集した三菱・住友・古河財閥はいずれも、戦前、財閥家族とサラリーマン経営者の仲が良好だった。旧財閥本社OBたちは、武家時代の忠臣のように、財閥を復活させて財閥家族に大政奉還しようと真剣に思っていたフシがある。ところが、当時の状況はそれを許さず、財閥家族抜きで企業集団に再編せざるを得なかった。サラリーマン経営者たちは財閥家族への恩義を忘れず、その子孫たちをグループ企業に就職させ、各社でヒラ取締役や監査役として遇していった。
一方、三井・安田・浅野財閥は財閥家族とサラリーマン経営者の仲が良くなかったので、財閥解体後に再結集の動きが起こらなかった。
終戦後しばらくの間は、財閥家族との関係をおざなりにしたまま、旧財閥系企業が再結集するという選択肢はなかったようだ。三井グループは、いわば「先生を呼びたくないから、ゼミの同窓会はやめようぜ」という人的なしがらみが、再結集を遅らせた一因になったのだ。
(文=菊地浩之)