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沈黙貫くロシアのクラシック指揮者、プーチン支持表明のオペラ歌手、世界中で排除

文=千原賢美/ピアニスト
西側オーケストラからの解任などが相次いだ指揮者ヴァレリー・ゲルギエフの公式サイト
西側オーケストラからの解任などが相次いだ指揮者ヴァレリー・ゲルギエフの公式サイト

 ロシアの大統領プーチンがその独裁的判断によりウクライナを侵略しようとし始めてから2週間が経ちました。罪のないウクライナの人々が数多く殺され、家を捨て難民となり、命からがら逃げ出す様子は私の住むオランダでも大きく報道されています。

 この侵略戦争で、過去にプーチン支持の声明を出していた音楽家たちが糾弾されていることはご存知でしょうか。そして、ロシアといえばクラシック音楽界のエリートという位置づけで、今までもモスクワ音楽院をはじめとした素晴らしい音楽専門の教育機関の多くから数々の巨匠やスターが産み出されてきました。しかしこの侵略戦争が始まり、今後のロシアの音楽家たちは、そしてクラシック音楽界全体はどうなっていくのでしょうか。そして、政治と音楽は切り離せないものなのでしょうか。

 ここでは、21世紀の巨匠である指揮者のヴァレリー・ゲルギエフや、「世界最高峰」とも形容されるオペラ界のスター、アンナ・ネトレプコをはじめ、今を輝く音楽家たち、そして国際コンクールがどのようにこの侵略戦争に反応し、結果どのように音楽界から追放されているのかをご説明し、そこから浮き彫りになる「政治と音楽」の関係性について考えたいと思います。

過去にプーチン支持表明の指揮者、音楽界から完全に追放される

 ヴァレリー・ゲルギエフといえばクラシック音楽愛好家からはもちろん、世界中から「21世紀の偉大な指揮者の1人」と認知されています。

 ゲルギエフは1953年ソ連生まれ、レニングラード音楽院で学び、その後ソ連崩壊の混乱を目の当たりにしながらマリインスキー劇場を率いてきました。彼は元々オペラ・バレエのレパートリーを多く演奏してきたマリインスキー劇場管弦楽団のレパートリーを大きく広げ、ベートーヴェンやマーラー、ショスタコーヴィチらの交響曲も演奏。それによって同管弦楽団の地位を国際的に高くしたという大きな功績があります。1990年代からは世界的な名声を獲得し、日本でもNHK交響楽団をはじめたくさんのオーケストラを指揮しました。

 彼が若い演奏家の発掘や育成に大変力を入れていることも注目に値します。日本ではPMFという音楽祭(選抜された若手が、世界で活躍する一流の音楽家から指導を受け演奏会を行う、世界三大教育音楽祭の1つ)で2015年から19年まで指揮者を務めました。

 筆者の住むオランダでは、「優勝したらゲルギエフと共演できる」のが売りの、若手ピアニストを対象にしたYPFピアノコンクールがありました。筆者は高校生の頃からゲルギエフの名盤の1つでもあるリムスキー=コルサコフのシェエラザードの録音を愛聴してきたので、「あんな凄い指揮者が学生と一緒に演奏してくれるなんて……」と感動したことを今でも覚えています。優勝した友人はマリインスキー劇場管弦楽団とゲルギエフの指揮で演奏し、「ゲルギエフはマフィアみたいな怖い人かと思っていたけど、実際は優しく接してくれてビックリした」と言っていました。

 今回ゲルギエフがなぜ槍玉に上がっているのかというと、彼は過去30年に渡りプーチン大統領と親しく交流があり、08年の南オセチア紛争の際には自身がプーチン大統領を支持していることをBBCのインタビューで発言。12年の露大統領選ではプーチン氏応援のためのテレビ広告にも出ていたからです。

 そして、彼は今回の侵略戦争に関しては頑なにノーコメントを貫いています。侵略戦争が始まって以来、ミラノ・スカラ座、カーネギーホール、ロッテルダムフィルハーモニー管弦楽団、ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団など世界的な演奏会場やオーケストラが次々と公演のキャンセルや解任を発表。いずれもプーチン大統領を支持しない声明をゲルギエフから聞けなかったので、このような制裁をした形となっています。

 さらには彼の所属事務所であったFelsner Artistsも契約解除を発表。これにより彼は西側の音楽界からは完全に追放されたといえます。

 Felsner Artistsのゲルギエフの元マネージャーの声明文からは、ゲルギエフにかなり配慮し、心を痛めながら解雇を決断した、という背景が読み取れます。文中では、プーチン大統領という単語は一言も使わず「独裁政権」という意味の単語regimeを用いており、さらにゲルギエフが沈黙を貫いていることに関しては、「(ゲルギエフは)このような犯罪を行う独裁政権に対して彼が長期間行ってきたサポートを公式に止めることをしようと、もしくは止めることができない」と表現。この遠回しな言い方からは、ゲルギエフが独裁政権に抑圧されているので反プーチンを唱えることができない可能性も示唆されています。

 ゲルギエフが本当はプーチン大統領を支持しておらず、政権から抑圧されている可能性も否定できません。黙っていれば周りがプーチン支持とも、支持していないが抑圧されている、とも勝手に解釈をしてくれます。後になって「実はあの時は」と言い出すことも可能です。その点ではゲルギエフは大変な策略家である、という見方が可能かもしれません。

 西側の音楽界からは完全に干されてしまったゲルギエフですが、ロシアでは依然として温かく遇されているようです。ドイツのメディア「BR24」によると、ロシアのプロパガンダメディアはゲルギエフを英雄と称え、「西側でゲルギエフはもっと多くのことができたのにも関わらず、一市民のような行動を取った。祖国は危険にさらされているのである」と書き、彼の帰還は「祝勝だ」と記したようです。

 3月12日にモスクワで行われる彼自身の財団のチャリティーコンサートでは、ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフの作品に加え、プログラムの最後に同じく作曲家ムソルグスキーの作品である展覧会の絵の最終曲『キエフの大門』を演奏するようです。現在、日本やヨーロッパで数々の演奏家たちがこの『キエフの大門』の演奏動画をシェアしたり、演奏会のプログラムにこの曲を追加したりすることでウクライナへのサポートを表明しています。

 そんな情勢の中であえてこの曲を演奏するのは、プーチン大統領の「ウクライナはロシアである」という思想の反映にも読み取れます。このプログラムが政府の要請を受けて組まれたものである可能性もありますが、いずれにせよウクライナの罪なき人々を無差別に攻撃し、独立国家を脅かしている独裁政権下でこの曲を演奏することに、何かしらの政治的な意味があると考えるのはいたって自然でしょう。

オペラ界の女王、チャイコフスキー国際コンクールの覇者も降板

 西側から「制裁」を受けたロシア人音楽家はゲルギエフだけではありません。カーネギーホールは1998年のチャイコフスキー国際コンクールで優勝したロシア人ピアニストのデニス・マツ―エフの出演もキャンセルしました。マツ―エフは過去にプーチン支持を表明しています。メトロポリタン・オペラはロシア人ソプラノ歌手、アンナ・ネトレプコの出演をキャンセル。そしてドイツのハンブルクで決まっていたオペラ公演も降板となりました。

 米紙ニューヨーク・タイムズによると、ネトレプコは2014年に親ロシア派の分離主義勢力が支配権を握っているウクライナ東部の都市ドネツクにあるオペラハウスへ巨額の寄付を行ったようです。さらにその後、彼女は分離主義勢力が使用するノヴォロシア人民共和国連邦の旗を手にして写真撮影をしていたのですから、これはプーチン支持と見られても仕方がありません。昨年、彼女の50歳の誕生日ではプーチン大統領もお祝いしたことがニュースにもなっています。ちなみにネトレプコはゲルギエフに見出され、彼のお膝元のマリインスキー劇場でキャリアを始めています。

 ネトレプコは自身のSNSで戦争に反対を表明。アーティストに公の場で政治について意見することや祖国を非難することを強要するのは正しくない、とも発言しました。

 これにはコメント欄で賛否両論が巻き起こり、彼女に「オーストリア市民権を返上しろ」と怒る人々や「プーチン支持を否定できないなら結局あなたはプーチン側だ」等のコメントも目立ちました。

 彼女の公式webサイトの演奏会情報をチェックしてみたところ、直近の演奏会は5月下旬に予定されているリサイタルで、それまでは何も予定されていません。オペラ界の女王の座が明け渡される日も近いのかもしれません。

ロシア人音楽家たちの受難と反応、国際コンクールへの影響

 ゲルギエフの沈黙、そしてネトレプコの声明を受けて、人権活動家でもあるユダヤ系ロシア人ピアニストのイゴール・レヴィットは「自分の国のリーダーが戦争を始め、それにより甚大な苦難が自分の国とその人々に起こる時、(自分の意見を)不明瞭のままでいることは許容できない。追記:そして絶対、絶対に、音楽と、自分が音楽家であることをそのことの言い訳にするな。芸術を侮辱するな」とInstagramで強い怒りを表しました。

 ロシアの芸術家約2万人は、プーチン大統領にウクライナでの軍事作戦をやめるよう公開書簡にサインをし、その中にはロシアの生んだ天才ピアニストで日本でも人気の高い、エフゲニー・キーシンやダニール・トリフォノフ、そして世界最高峰のオーケストラであるベルリン・フィルハーモニーの指揮者、キリル・ぺトレンコらの名前も含まれています。

 ゲルギエフらから始まったロシア人音楽家排除の流れは国際コンクールにも及んでいます。今年開催されるダブリン国際ピアノコンクールは「個人が政府の行いを反映し支援しているわけではないことは認識しているが、ロシアの行いを考慮すると我々はロシアからの参加者を含めることはできない」と公式webサイトで発表しました。

 これとは対照的に、来年行われるブゾーニ国際コンクールはウクライナ、ロシア、ベラルーシからの参加者も歓迎すると発表しました。2009年に辻井伸行さんが優勝したことでも話題になった、本年開催のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールも、ロシア生まれのピアニストは参加することができるとの声明を発表しました。

 同様に今年開催されるチェロ部門のエリザベート王妃国際コンクールも、そのルールに「いかなる参加者もイデオロギー、言語、政治、宗教、又は人種への偏見により参加を拒否されない」と規定されているように、「全ての国籍の参加者を歓迎します」との声明を発表しました。これらの国際コンクールは若手音楽家にとっては、その後の人生を左右する一大イベントです。

ドイツで議論に ― 国籍や政治情勢を理由にした契約破棄は違法?

 あるアーティストとの契約を国籍や政治情勢を理由に破棄することは、そもそも違法ではないのでしょうか。

 相次ぐロシア人音楽家排除の流れを受け、ドイツの弁護士のViktor Winklerはドイツのメディア「BR24」の記事『Welle von Ausladungen: Werden russische Künstler diskriminiert? 』(解雇の波 ―ロシアの音楽家たちは差別されているか?)で「ロシア人である」というような民族や国籍を理由にした契約破棄などの動きは、ドイツの、そしてヨーロッパの反差別法に違反すると指摘してます。

 これとは対照的に、ドイツの別の弁護士で過去に音楽界でも多くの契約書を扱ってきたPeter Raueは、この件については労働裁判所(独Arbeitsgericht: 労働事件に関する紛争を扱う特別の裁判所)ではなくミュンヘン市の民事法廷で扱われ、ゲルギエフ側には勝ち目が無いので「私は彼には民事訴訟を起こさないようにアドバイスするだろう」と言っています。

 同記事では、今回のような契約破棄が反差別法違反である可能性に加え、例えばゲルギエフに「プーチン不支持を表明しろ」と強要するのは表現の自由を脅かす可能性があることも示唆しています。しかし、プーチン支持の疑惑がかかった音楽家を雇用するのは、雇用主の名声を傷つけることも考えられますし、もしそのような音楽家の元で働きたくない人々(例えばオーケストラの団員)がいれば、雇用主としては契約を破棄せざるを得ない状況におかれるのも事実でしょう。このように、異なる視点から今回のロシア人音楽家への西側の「制裁」を見た時に、この動きが違法であるか否かがドイツでは議論になっているようです。

 Winklerは、今回制裁を受けた音楽家は弁護士と共に契約破棄が違法でないかチェックし、訴訟するかどうかに関わらず雇用主と話すべきとしています。これは、今後他の雇用主が法律を顧みない制裁的行動を、アーティストに対して簡単に取れないように牽制する意味もあります。

切り離せない芸術と政治 ―浮き彫りになった問題

 結局のところ、芸術と政治は切り離せないのでしょうか。

 クラシック音楽の起源はグレゴリオ聖歌であるといわれますが、これはローマ・カトリック教会の典礼のための音楽です。中世ヨーロッパ社会ではローマ・カトリックが絶対であったことを考えると、クラシック音楽の起源そのものが政治的権力と結びついているとも言えるでしょう。

 その後のバロック時代には、宮廷楽長と外交官を兼任する音楽家もいました。他にもベートーヴェンはナポレオンに振り回され、シューベルトはウィーン体制による検閲に苦しみながら作曲を続け、ブラームスとワーグナーは普仏戦争でのプロイセン勝利に歓喜し曲を作り……と音楽家と政治の関わりは音楽史を見てみると枚挙にいとまがありません。

 ヒトラーはユダヤ系のメンデルスゾーンやマーラーが「非アーリア人」だとして彼らの作品の上演を禁止し、ベートーヴェンやワーグナーらドイツ人作曲家の作品を支持し、利用しました。20世紀の巨匠である指揮者フルトヴェングラーはナチス政権下で活動していたことで、実際にはユダヤ人の亡命を手助けしていたにも関わらず、戦後は批判されてしまいました。

 ナチスと関係のあった音楽家は他にもたくさんいます。あのカラヤンもナチス党員でした。オランダでかつては女王陛下よりも人気のあった指揮者メンゲルベルクは、ナチスに協力した容疑で裏切り者とされ音楽界から追放されています。20世紀を代表するピアニストのコルトーもナチス政権に呼ばれて弾いたことで戦後に非難され……とこちらも挙げるとキリがありません。

 今回のロシアによるウクライナ侵略戦争により、今まで常に存在してきた「政治と芸術の関係」という問題がより一層浮き彫りになったと言えるでしょう。芸術は人により作られ、その「人」は政治と関わりを持たずには生きてはいけません。しかし芸術の価値そのものが政治の事情により貶められることがあってはならない、と願うばかりです。

(参考文献)

マリインスキー劇場公式HP

https://www.mariinsky.ru/en/company/orchestra1/history/

Felsner Artistsの責任者からの個人的な声明文

BBC in Russian.com

http://news.bbc.co.uk/hi/russian/international/newsid_7560000/7560809.stm

『ロシア出身ソプラノ歌手のアンナ・ネトレプコ、メトロポリタン・オペラの公演を降板』

https://news.yahoo.co.jp/articles/2c44f3974f7c0196cc7ff70b58c61522d7932d4b

『アンナ・ネトレプコ公式webサイト』

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『プーチン大統領に「ウクライナから手を引け」 ロシアの芸術家ら2万人が署名』

プーチン大統領に「ウクライナから手を引け」 ロシアの芸術家ら2万人が署名 

『ダブリン国際ピアノコンクール』

Announcing the Quarter Finalist competitors for the Dublin International Piano Competition 2022

 

『ブゾーニ国際コンクール 公式Instagram記事』

 

『ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール 公式Instagram記事』

 

『エリザベート国際コンクール Statement : Ukraine』

https://queenelisabethcompetition.be/en/news/statement-ukraine/

『BR24 Welle von Ausladungen: Werden russische Künstler diskriminiert?』
https://www.br.de/nachrichten/kultur/welle-von-ausladungen-werden-russische-kuenstler-diskriminiert,SzU6vI8

『BR24 Nach Rauswurf in München: Gergiev gibt Konzerte in Moskau』
https://www.br.de/nachrichten/kultur/nach-rauswurf-in-muenchen-gergiev-gibt-konzerte-in-moskau,SzIpt5r

(文=千原賢美/ピアニスト)

千原賢美/ピアニスト

千原賢美/ピアニスト

 1996年生まれ。3歳よりピアノを始める。2004年から2010年まで桐朋学園大学音楽学部附属子供のための音楽教室に在籍。14年に桐朋女子高等学校音楽科を卒業、同年アムステルダム音楽院に入学。15年、Young Pianist Foundation category 2にて3位。16年にクリスティーナ王妃コンクール in Haarlem にて3位。18年にアムステルダム音楽院学士課程を首席で卒業、Jacques Vonk財団から特別に才能のある生徒に贈られる奨学金“Special Talent”を授与し同音楽院の修士課程に入学。20年に同音楽院の修士課程を卒業。22年5月にはコンセルトヘボウでの演奏会が決まっている。


千原賢美公式ホームページ

Twitter:@stm_pf

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