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「偉人たちの診察室」第18回・大正天皇

精神科医が語る大正天皇の“ご病状”…生誕直後に髄膜炎、そして発話障害、認知機能障害

文=岩波 明/精神科医
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明治天皇の側室で典侍の柳原愛子の子として生まれた大正天皇。成人した唯一の皇子で手厚く育てられたが、出生時から健康状態が芳しくなかった。“暗君”として語られることの多い大正天皇の生涯とは? 写真は1912(大正元)年に撮影されたもの。(画像はWikipediaより)

現在に続く都市文化の幕が開いた「大正という時代」

 明治と昭和という、ふたつの巨大な時代のはざまに位置している「大正時代」(1912~1926年)。15年間という短い時代であったこともあってか、一般にはそれほど注目されていないようにも思われる。もしかすると、この時代の君主である大正天皇が生来病弱で、明治天皇や昭和天皇と比べるとインパクトの少ない存在であったことも関係しているのかもしれない。

 振り返ってみると、「明治」は武家社会から近代国家創設への変革期であり、一方で「昭和」は戦争の惨禍と奇跡的な経済復興の時代であった。それでは、大正とはどういう時代であったのだろうか。実は大正という時代は、今日にも通じるさまざまな社会的・文化的なテーマがはっきりと呈示された時期であったし、そうしたテーマが現れるべくして現れた、光と闇が交錯した時代であった。

 この時期は、明治以来続いていた、維新の実力者による藩閥政治体制が揺らいでおり、代わって政党勢力が進出してきており、いわゆる大正デモクラシーの機運が高まっていた。「平民宰相」と呼ばれた原敬が政党内閣を組織したのは、1918(大正7)年であったが、原は1921(大正10)年に暗殺されてしまい、時代に暗い影を投げかけた。一方でこの時期、普通選挙運動が活発となり、平塚らいてうや市川房枝ら「新しい女性」による婦人参政権運動も目立つようになった。

 1921(大正10)年11月25日には、皇太子裕仁親王が、大正天皇の病状悪化によって摂政宮となった。1923(大正12)年には関東大震災が起こり、東京に甚大な被害がもたらされた。この震災直後の混乱期に、アナーキストの活動家であった大杉栄と伊藤野枝の夫婦が憲兵隊に拘束され、殺害されるという事件が起きている。1925(大正14)年には加藤高明内閣下で普通選挙法が成立したが、一方で社会主義者・共産主義者の弾圧のために治安維持法が制定された。

 日本が第一次世界大戦に参戦したのも、大正時代のことである。日本は連合国の一員として連合国の側につき、中国にあったドイツの拠点を襲撃し、革命が起こったロシアに対してシベリア出兵を行った。第一次世界大戦の結果、敗戦国のドイツやオーストリアでは君主制が廃止され、ロシアなきあと、世界初の社会主義国となるソビエト連邦が成立した。

 こうした大正時代をもっとも大きく特徴づけるのは、その文化的な側面ではなかろうか。

 近代都市の発達や経済の拡大にともない、現在にも通じる大衆文化が開花し、「大正モダニズム」と呼ばれる華やかな時代が到来した。女性の就労も増えて、大都市部に「モガ」(モダンガール)と呼ばれる女性たちが登場したのもこの時代である。電灯や電車が一般的となり、洋食屋やカフェ、さらには扇風機や蓄音機も登場し、今日の都市文化の幕が開かれた。無声映画の隆盛もこの時代である。

 この時期は文学分野でも多くの作家が活躍し、芥川龍之介、有島武郎、志賀直哉らの文学者が多くの作品を発表した。芥川と有島は人気作家であったが、自ら命を絶っている。1920(大正9)年に創刊された雑誌「新青年」は今日の目でみれば大衆文芸雑誌であるが、江戸川乱歩らが活躍し、現在の「サブカルチャー」の原点ともいえる内容を含むものであった。

 こうした時代の君主、大正天皇はどのような人物であったのか。以下に、医学的な見地から解き明かしてみたい。

 本書の記載においては、古川隆之『大正天皇』(吉川弘文館、2007年)、原武史『大正天皇』(2015年、朝日文庫)、『大正天皇実録 補訂版』全6巻(ゆまに書房)などの資料を参考にした。

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