一日6百人殺到!広島の奇跡の喫茶店、何がスゴい?モーニング発祥は愛知じゃない?
喫茶店店主の「おもてなし」から生まれた
ルーエぶらじるの前身は末広食堂といい、終戦直後の46年に先代の末広武次氏(故人)が広島駅前で始めた。52年にタカノバシ商店街の現在地に店を移転させ、喫茶店として再スタートした。当時の店名は「喫茶ブラジル」で、戦前に東京に住んでいた同氏が、通っていた銀座の老舗喫茶店の名にちなんでつけたという。
そんな店でモーニングセットが生まれたのは55年という。現店主の末広克久氏は、「先代は新しもの好きで、当時は三種の神器と呼ばれた冷蔵庫もテレビも、地域に先がけて最初に購入した人でした」と語る。ちなみに49年生まれの克久氏は、長男で当時6歳だった。モーニングについて武次氏は、こんな意識を持っていたそうだ。
「お客様に『夢の三点セットを出したい』と言っていました。コーヒーとパンと卵料理のことです」(同)
こうして生まれたのが、コーヒーにSSサイズの卵を使った目玉焼きをトーストに載せたセットだ。当時コーヒー1杯50円のところ、60円で提供したという。
「これが評判となり、『週刊朝日』(朝日新聞社/現・朝日新聞出版)が記事として取り上げたことで全国に広まったようです」(同)
56年に撮影した当時の外観写真にも「モーニング」の文字が写っている。
先代が三点セットを「夢」と語ったのは、説明が必要だろう。広島市に原子爆弾が落とされて壊滅的な被害を受けた45年8月6日から、まだ10年しかたっていなかった。発売当時は敗戦の傷跡が残る食糧難で、小さなSSサイズの卵も貴重品だった。ちなみに戦時中は「贅沢品」だったコーヒーの輸入が再開したのは、発売5年前の50年のことである。
一方、前述した愛知県一宮市では、モーニング発祥店は不明だが、始まったのは同時期で、繊維の街・一宮では紡績業が最盛期の時代だった。当時「はたやさん」(機織職人)が事務所で打ち合せしようとしても、機械の音がうるさくてゆっくり話ができない。そこで近くの喫茶店を接客に使うようになった。やがて人の良いマスターが、サービスで「コーヒーにゆで卵とピーナッツをつけたのが始まり」とされる。
豊橋市の発祥店は「仔馬」(現在は閉店)という店で、57年頃に従業員にまかないとして出していたパンをお客にもサービスで出すようになり、「松葉」でも始まったとされる。
誤解のないように記すが、一宮市も豊橋市も、「当地こそがモーニング発祥地」とは主張しておらず、「地域一帯に広まっていった」と説明している。残念ながら発祥当時の資料は残っていない。したがって当時の写真が残り、内容も具体的な広島が発祥というのが有力なのだ。3地域に共通しているのは、店主のおもてなし精神から生まれたという点だ。