そのXデーは、東京五輪・パラリンピックが開催される2020年――。
1992年以降、半導体売上高で世界1位に君臨してきた米インテルが、とうとう2位の韓国サムスン電子に抜かれるときがきた。サムスンは新型スマートフォン(スマホ)「ギャラクシーノート7」で発火騒動を起こしているが、半導体売上高にはその影響はほとんどないと考える。さらにインテルは、2027年に台湾TSMCにも抜かれて3位に転落する可能性もある。
本稿では、インテルがこのような苦境に陥った原因を明らかにした上で、サムスンやTSMCがインテルを超えて成長する根拠を示す。
インテルの苦境は2001年から始まった
インテルの創業から今日に至るまでの半導体売上高、歴代CEO、および主な出来事を図1に示す。
インテルは、1968年にロバート・ノイスとゴードン・ムーアが設立した。ノイスは半導体集積回路の発明者のひとりであり、もうひとりは「半導体の集積度は2年で2倍になる」というムーアの法則でお馴染みのあのムーアである。ここに、第1号社員としてアンディ・グローブが加わり、有名な3人態勢ができ上がった。
当初インテルはDRAM(大容量記憶装置)メーカーだったが、1970年代後半から参入してきた日本メーカーにシェアを奪われ、85年に撤退した。
当時のCEO(最高経営責任者)のムーアは、テクノロジ・ドライバとしてDRAMを続けることを主張したが、当時COO(最高執行責任者)だったグローブがこの意見をねじ伏せて撤退に持ち込み、PC用プロセッサに大きく舵を切った。そして、グローブがCEOになると同時に、怒涛の快進撃が始まった。
92年にNECを抜いて半導体売上高で世界1位になり、95年にWindows95が発売と同時にマイクロソフトと「ウインテル連合」を結成し、PC用プロセッサをほぼ独占。世界1位の座を不動のものにしていった。
ところが、グローブからグレイグ・バレッドへCEOが交代すると同時に、インテルの成長が明らかに停滞し始めた。世の中には、インターネットと携帯電話が普及しつつあった。バレッドCEOは、プロセッサメーカーからネット企業への転換を目指し、携帯電話用プロセッサに進出しようと企業買収や提携を繰り返した。ところが、これらはことごとく失敗した。この失敗が、今日のインテルの苦境につながっている。この失敗の原因はどこにあったのか。