首相の異例な賃上げ要請
安倍晋三首相は来年の春季労使交渉で、「少なくとも前年並」の賃上げを経済界に要請する方針という。このような異例な事態が、これで4年間も続くことになる。日本銀行の消費者物価目標の訂正など、アベノミクスの失速あるいは失敗が議論されるなか、賃金を上げて消費を拡大させて経済成長を促したいという意思は明確である。国内市場が総じて伸び悩み、デフレの脱却もままならない原因は、国内市場における消費の伸びの足取りが極めて重いからである。
その原因は、国民の所得の伸びが思わしくないことにある。もちろん賃金が上がることを喜ばない国民はいない。本当に上がっていればこれほどうれしいことはないが、4年続いた首相の要請が、本当に賃金上昇に結びついたのか。マスコミもこのことをきちんと伝えていない。要請に効果があったのかどうか、その検証が必要である。それには財務省が毎年出している「法人企業統計」という日本企業全体の傾向を分析できる統計が有効だろう。これを使用して、検証してみよう。
業績改善のなかでの伸び悩み
まず安倍政権の期間に、企業業績が大きく改善していることは確かな事実である。安倍政権登場前と比較して付加価値額は着実に伸長している。この点ではアベノミクスに効果があったことは反論が難しい。しかし、ここで問題にしたいのは賃上げがあったのかどうかである。
賃金のベースとなる人件費は、この間ほとんど増加していない。そのひとつの要因は、同期間に従業員数が減少したことも一因であろう。団塊の世代の大量退職などの時期と重なっているから従業員は減少している。したがって、賃金を問題にする場合、1人当たりの人件費の動向を見る必要がある。
企業業績の基礎となる付加価値額の伸びに対して、1人当たり人件費の伸びはなんとほぼ5分の1しか伸びていない。この背景に高齢の団塊の世代が退職して、従業員の年齢構成が若返ったからという理由もあるかもしれないが、これほどのギャップを説明することはできない。つまり、企業側としては、首相の要請があったからといって、業績の著しい改善があったにもかかわらず、賃金に対して財布の紐を緩めていないことを示しているのであろう。
1人当たり人件費は、2011年度に485万円だったものが、15年度には489万円に7万円上がったに過ぎない。この間、消費税が上昇しており、物価も多少上がっているから、実際の所得は減少していたことを示している。家計が消費を増やす状況にはない。
働きに応じた賃上げを
しかもこの間、働き手の効率を示す労働生産性は継続的に大きく改善している。言葉を変えれば、働きに応じた賃金が支払われていないということである。労働者の分け前を示す労働分配率はマイナスとなっていることも、このことを示している。稼ぎは会社側に持っていかれてしまっている。バランスシート上の内部留保が、国際比較しても異様に膨らんでいる事実と一致する。
安倍首相がこのような事実を捉えて、経済界に賃上げを迫っているとは思えない。はっきりいって、ポーズとしてこのような要請をしていると断じざるを得ない。法人税減税など矛盾した政策を平気で採用している感覚は、どっちを向いて政治を行っているか明らかであろう。内部留保課税など政権の話題にも上がらない。
安倍首相が大声で唱えている働き方改革も当然必要であるが、その前に働きに応じた賃金・所得改革こそ優先すべきである。もう「ポーズ」としての、従って、首相の本気でない賃上げ要請を許してはならない。
(文=井上隆一郎/桜美林大学教授)