異色の企業集団「APFグループ」を率いる此下益司代表が先頃、金融庁から約41億円もの課徴金納付命令を受けた。2013年11月に証券取引等監視委員会(以下、監視委)による勧告が出て以来、審判手続きが続いていたが、約3年半ぶりに結論が出された。かねてAPFは当局に対し敵対姿勢をとってきたが、今後さらに態度を硬化させることは必至。2年前からAPFは、これまた異色の金融グループであるJトラストとの連携を深め東南アジア展開を加速させており、当局による監視の目は以前にも増して強まりそうだ。
アジア・パートナー・シップファンドの略称であるAPFグループが日本市場に彗星の如く現れたのは07年9月のこと。大証ヘラクレス上場(当時)のコンテンツ関連会社、ウェッジホールディングス(以下、ウェッジHD)の増資を引き受け傘下に収めた。APFは此下代表がタイで立ち上げたもので、現地上場の金融会社「グループリース」の買収を手掛けるなどし、勢いを駆って日本に逆上陸したかたちだった。APFは翌年6月には東証2部のゴム製品会社、昭和ゴム(現・昭和ホールディングス、以下、昭和HD)も傘下に入れた。
当時、数百億円を運用しているとの触れ込みだったAPFグループには広告塔がいた。世界陸上選手権で銅メダルを獲得し「侍ハードラー」との異名も取っていた為末大氏がその人で、同氏は07年12月から3年間、ウェッジHDの取締役を務めている。そうした派手な面がある一方、APFには当初から不透明な点が少なくなかったのも事実だった。
ひとつは此下代表が日本市場に逆上陸するまで、いかにしてタイでのし上がったのかという点である。
1967年生まれの此下代表は大阪大学法学部卒業で、学生時代は国体にも出場するなどテニス選手で鳴らした。経営者として歩み始めたのは97年で、その年、大阪府内の三和ホームサービスという会社の代表取締役に就任している。同社は貸しテニスコートや飲食店を手掛ける会社だったが、信用調査会社の調査によると、03年頃でも年商は10億円足らずで、とても上場会社を買収できるような規模ではなかった。それが数年で上場企業を相次ぎ傘下に収める急成長ファンドに化けたわけだから不思議な話だった。