津波で本社や工場が壊滅…かもめの玉子「さいとう製菓」、全社員160人の命を救った行動
未曾有の被害を出した東日本大震災から、10年目の3月11日を迎えます。銘菓「かもめの玉子」を製造・販売するさいとう製菓株式会社(本社:岩手県大船渡市)は、本社をはじめ、三陸沿岸にある5つの店舗と和菓子工場が全壊しました。被害総額3億1000万円という莫大な被害を出し、その後もいくたびもの艱難辛苦が同社を待ち受けていました。同社のこの10年を振り返りながら、被災された方やコロナ禍で苦しんでいらっしゃる方々にヒントと元気をお届けします。
ほくほく、しっとりとした黄味餡をカステラで包み、ホワイトチョコでパリっとコーティングした「かもめの玉子」は、今や東北を代表する銘菓です。このお菓子を製造・販売しているさいとう製菓の齊藤俊明会長(震災当時は社長)は、その日、盛岡にいました。2011年3月11日午後2時46分、親戚のお見舞いのため盛岡に出かけ、昼食を取るために百貨店に立ち寄った時のことです。齊藤会長は「建物が倒壊すれば命は助からない」と脂汗をタラタラ流しながら、なんとか地下の駐車場にたどり着きました。道路に出たものの、信号が停まり、大渋滞で車はほとんど動きません。
盛岡から本社のある大船渡までは約120キロ、普段は車なら2時間程度で帰れるはずが、ようやく帰れたのは約4時間後の午後6時半になっていました。その間、車中のラジオからは絶望的な情報ばかりが流れます。大船渡に入った時に駅前のビルが遠く離れた山手に流れついている様子を見て、「もう大船渡市は全滅だ。せめて社員、取引先の方、家族は無事でいてほしい」と祈ったといいます。
悲しいほどに予想は的中しました。市内に戻った時には津波は引いた後でしたが、本社の周辺は壊滅状態(写真)でライフラインも切断され、あたりは真っ暗でした。写真にある青い看板の位置まで津波が来て本社を丸呑みし、その高さは8.5メートルにも及びました。豊かな恵みを与えてくれていた三陸の海が、一転して猛威を振るったのです。
「さすがに自宅はだめだろう」と諦めていた齊藤会長でしたが、周囲一帯の家が流されたなか、2階の床上1メートルまで浸水し、津波で流されてきた家がぶつかった衝撃で、1階の柱が8本も流されていました。しかし、高い技術を誇る“気仙大工”が建てた頑丈なつくりの屋根は、見事に持ちこたえたのです。
ほっとしたものの、家族の姿はどこにもありません。必死で動揺を抑えながら、安否確認のために病院や市民会館、小学校へと車を走らせましたが、どこも暗闇にもかかわらず、満員電車のように大勢の人が押し寄せ、一歩も進めません。
不安だけが高まるなか、外に出ると身を切るような寒さです。当日の大船渡市の気温はアメダスの観測値によれば、午後3時半で3.3℃、最低気温は -4.4℃、夜間には小雪も舞い散っていました。ようやく高台にあった同社の役員の自宅にたどりつき、おおよその全社の被害と社員の安否を聞き出せたのです。
災害時の行動を考え直す
大船渡市役所のHPによると、市内の震度は6弱、建物被害は5592世帯、人的被害は死者340人、行方不明者79人(令和2年9月30日現在)という大惨事となりました。同社は本社と和菓子工場1棟、直営店5店舗に加えて、23人の社員の自宅が津波で流されてしまいましたが、160人の社員全員は無事でした。
なぜ全員が無事だったのでしょう。
「普段から決して特別な対策をしていたわけではありませんが、偶然にも、以前から予定していた避難訓練を前日の3月10日に行っていたのです。実は3月9日にも地震が発生し、避難警報が出されていて、本社と店舗を閉めて社員全員を帰らせていました。そこで“人命第一”の観点から、大きな地震があった時は、自宅へ帰るように決めていた経路を高台の避難場所に変更して、全社員に周知しました。自宅が流された社員が23人もいたことを思えば、避難経路を変更しなければ、被害に遭う社員がいたかもしれません。偶然とはいえ、避難訓練は、改めて災害時の行動を考え直すきっかけになっていたと思います」(齊藤会長)
当日の気象庁の発表によると、地震発生からわずか8分後の2時54分、大船渡に津波の第一波が押し寄せました。
大地震のショックと津波の危機感を抱えながら、車で避難するにせよ、業務を終了して8分以内に本社関係者全員が避難するのは容易ではありません。
「普段から緊急避難用品は備蓄していましたし、避難訓練の時に、誰が何を持ち出すか、担当者は誰かも決めて、全員に伝えていました。陸前高田の店舗スタッフは、なんとかレジのお金をわしづかみにして逃げましたが、沿岸に近い本社や裏にあった工場の社員は何も持ち出せず、着のみ着のまま逃げるだけで精一杯でした。命に直面する緊迫した状態とは、そういう事態に陥ることです。結局、被害に遭った本社や店舗は流されて何も残りませんでした。
周囲の会社も避難用品の備蓄を怠っていなかったのですが、どこも大津波には太刀打ちできませんでした。耐震性能に優れた建物にオフィスを構えることは必須だと思います。10メートルを超える津波もありましたので、津波の心配のある地域は4階以上に備品を設置するなど、最悪のリスクを想定して保管場所を決めることです。同時に、災害が発生したら即座に避難用具を持ち出すことができるように、普段から訓練を行い、体に叩き込んでおく必要性があると痛感しています」(同)
同社にとって3月は、盆・暮れに続く贈答時期で増産体制に入る時期です。余震も頻繁に発生し、ライフラインや場所によっては道路も寸断されている状態では、生産も物流もままなりません。お客様にしても「また地震が発生したら」「津波が来るかも」という恐怖が先に立ち、とてもお菓子を買う気持ちにならないものです。
そこで、齊藤会長はある英断を下します。仙台、盛岡などの各店舗や物流拠点に在庫を確認したところ、「かもめの玉子」の在庫が全部で約30万個あることがわかったのです。
「恐怖で夜も熟睡できない方も多くいらっしゃいました。おいしさは安らぎにつながります。避難所で苦しい生活を送っている方々や不安を感じていらっしゃる皆様に『かもめの玉子』を食べて元気になっていただきたいという気持ちで、避難所や高齢者施設に3回に分けて、すべて無償配布をいたしました」(同)
齊藤会長が陣頭指揮を執り、無償配布をしたのが13日でした。すでにガソリンの確保もままならない状態です。そこで一計を案じ、すべての営業車の燃料タンクからガソリンを抜き取り、1台のトラックに集約して、回りました。「生きていて本当に良かった。これを食べて元気を出してください。一緒にがんばりましょう」と声を掛けると、なかには涙を流して感謝する人もいたそうです。
しかし、無償配布を金額に換算すると、総額約3,000万円にも及びます。すでに3億円以上の損失を出しています。少しでも元を取りたいと思わないのでしょうか。
「どうしたら売れるかとか、当社さえ良くなれば、それでいいとはまったく思いませんでした。当社を支えてくださったお客様に、少しでもご恩返しをさせていただくのは、今しかないという思いしかありませんでした」(同)
生産工場が残った
そんな齊藤会長の思いは、しっかりと社員にも根付いていました。釜石で震災に遭った営業社員は、そこで足止めを食らいます。状況を見かねた社員はとっさの判断で、一人一人に声がけをしながら、車に積んでいた「かもめの玉子」をすべて配布したのです。
「のちに、釜石市長から感謝のお手紙が送られてきましたが、釜石市内は壊滅した町もあったほどで、携帯も通じず、その晩、大火災も発生し、どれだけ社員も不安だったかと思います。それでも、日頃のご恩返しをと、迷わず行動した。経営者としてこんなに誇りに思うことはありません。この社員には翌年のお正月に“あっぱれ賞”を授与しましたが、『あの状態なら、うちの社員なら全員同じことをしていたと思います』と話していました」(同)
不幸中の幸いだったのは、「かもめの玉子」の生産工場が山間部に位置していたため、津波の被害を免れたことでした。
「この工場にしても地震の揺れによって床や壁などにひびが入ったり、天井が落ちたりしましたが、社員が全員無事だったことと、生産工場が残ったことは、その後の復興の力強い足掛かりとなりました」(同)
3月23日、齊藤会長は社員全員を集め、今後についての計画を発表しました。
「そりゃ、みんな不安そうでしたよ。私は一人ひとりの目を見ながら、『みんなの給料はこれまで通り払うから、安心してほしい。大船渡で一番早い復活をして、地元の方に元気になっていただきましょう!』と元気よく話すと、社員の目がキラキラと輝きを取り戻して、表情が一変しました。『よし、この社員たちがいれば必ず復活できる』と確信しました」(同)
しかし、そんな決意をあざけり笑うような事態が同社に待ち受けていたのです。
(文=鬼塚眞子/一般社団法人日本保険ジャーナリスト協会代表、一般社団法人介護相続コンシェルジュ協会代表)