日本大学アメリカンフットボール部の危険タックル問題は、発端となったアメフト部よりも、今や日大という大学そのものに批判の矛先が向いている。そんななか、あらためてアメフト部の体質に焦点を当ててみると、そこから日本のあらゆる組織に共通する重要な問題が見えてくる。それは、自分の頭で考えない組織の弱さである。
アメフト部員の声明文で思い出す東芝事件
危険タックルが起こってから20日以上たった5月29日、日大アメフト部の部員たちは声明文を発表した。そのなかに、こんな記述がある。
「これまで、私たちは、監督やコーチに頼りきりになり、その指示に盲目的に従ってきてしまいました。それがチームの勝利のために必要なことと深く考えることもなく信じきっていました」
これで思い出すのが、東芝の不正会計である。東芝の一連の事件の発端となった最初の不正会計は、「チャレンジ」という名の下、利益達成に対して役員からの過度なプレッシャーをかけられたことによって不正会計に及んだものだ。不正に手を染めた従業員は、不正を犯している自覚はあったはずである。それでも、上司の不当な圧力に屈したわけだから、上からの指示に盲目的に従ったという点で、日大アメフト部と同じだ。
さらに注目したいのは、その直後の決算発表が2度にわたって延期された理由である。それは、内部告発が相次ぎ、すべてを処理するのに時間がかかったからだ。
それが意味することは、当事者以外にも、非常に多くの従業員が不正が行われていた事実を知っていたということである。知っていても言わなかった、もしくは言えなかったということである。不正が明るみに出たことによって、初めて言える状況になったということだが、それまでは組織丸ごと上の者に盲目的に従っていたということだ。
このような不正は、いくら内部統制を強化したところで防げない。多くの会社がいうところの内部統制の実態は、分厚い業務マニュアルの束にすぎないからだ。そのような“形式的な内部統制”はマニュアル型人間を大量生産するだけだ。マニュアル型人間は思考停止に陥る。自分の頭で考えなくなるのだ。
他律型コントロールから自律型コントロールへ
従来のガバナンスは、そのほとんどが“他律型コントロール”を基本としている。それは、ルールと罰で構成されている。他人からルールを守ることを強いられ、破れば罰が与えられるというコントロールだ。しかし、これから本当に必要なのは、自らの良心に基づき、ダメなことはダメと言える“自律型コントロール”である。そのために必要なことは、自由闊達になんでも言える“場”をつくることである。次から次へとルールをつくることではない。
そもそも、ルールだらけの職場が楽しいわけがない。楽しくない職場からは、斬新なアイデアもイノベーションも生まれない。不正防止以前に、肝心の競争力という観点からも、これから必要なのは、各人の主体性に任せる自律型コントロールだ。
大学スポーツ界を見ても、本当に強いところは従来の悪しき体育会系の面影は微塵もない。箱根駅伝4連覇を含め大活躍をしている青山学院大学陸上部は、上級生と下級生がフランクにものが言い合える自由な雰囲気であり、監督は学生の主体性を非常に尊重している。前人未到の9連覇を達成した帝京大学ラグビー部も、厳しい上下関係がないどころか、雑用は最上級生がやることになっている。そして、監督が重視しているのは、選手自らに考えさせることだ。
今どきの本当に強い体育会系は、こうなのだ。
それなのに、いまだに従来型の体育会系の学生を採用したがる企業が多いらしい。転職市場でさえ、従来型の体育会系の人気が高いと聞く。これは外資系には絶対に見られない傾向らしく、外資系ではとても通用しない程度の実績でも、体育会系というだけで日本企業には採用が決まるというのだ。理由は、いずれも「使いやすいから」。
しかし、命令に服従するだけの人材で固めた組織は弱い。それは、不正に関しても競争力に関してもだ。そのような組織は時代遅れでもある。中央の命令に絶対服従のイメージが強い軍隊でさえ、現代は権限委譲型になっている。その理由は、戦闘形態がますます高度化するなか、中央の命令を待っていては現場で柔軟かつ迅速な対応ができないからだ。中央の役割は命令することではなく、それぞれの現場が自律的に判断し行動できるように、十分な情報を提供することに変わってきている。
企業においては、命令に忠実に従うだけの仕事はすべてコンピュータやロボットがやるようになる。それでも、いまだに体育会系を好んで採用し続ける大企業は、自ら衰退への道を歩んでいるようなものである。
日大に対しては日本国民総出で批判する状態となっているが、省みれば、批判している人が属している組織にも同じような問題が横たわっているのではないだろうか。
(文=金子智朗/公認会計士、ブライトワイズコンサルティング代表)