サッカーとは逆!音楽産業ではイタリアを逆転した英国…モーツァルトが長期滞在した理由とは
サッカーの欧州選手権「UEFA EURO 2020(ユーロ)」の決勝戦が7月11日(現地時間)、イギリス・ロンドンにあるサッカーの殿堂、ウェンブリー・スタジアムにて行われ、PK戦までもつれ込んだものの、最後はイタリアのGKドンナルンマが止め、イタリアが欧州選手権の2度目のタイトルを手に入れました。イングランドチームは、55年ぶりの国際タイトルをギリギリのところで逃してしまいました。
本来は、昨年開催されるはずだったユーロですが、新型コロナウイルス感染症の影響で延期、今年の開催となり、「東京2020オリンピック」と同様に「2020」を大会のタイトルとして残しています。
僕は、イギリスに通算9年ほど在住していたので、イングランドチームの優勝を期待していましたし、友人のイギリス人からも「今日は決勝だよ」とのメッセージも受け取っているくらい盛り上がっていたのですが、イギリス発祥のサッカーにもかかわらず、ワールドカップも含めて、イングランドチームはなぜか実力を出し切れないのです。
そこで、この雪辱を東京オリンピックで晴らしてもらいたいところですが、そもそもイングランドは今回のオリンピックの出場権を逃しています。さらに、もし出場権を獲得していたとしても、イングランドチームではなくイギリスチームとしての出場となります。
ここまで、「イギリス」と「イングランド」をあえて使い分けていますが、実は国別対抗戦であるオリンピックは、イギリスチームを見ることができる唯一の機会です。通常の国際試合では、イギリスチームではなくイングランドチームとして戦うことになっています。イギリス国内には、ほかにもスコットランドチームやウェールズチームもありますが、決して一緒に組もうとしません。これはイギリス発祥のラグビーも同じで、“国際試合”といいながらも、イギリスだけはバラバラに出場することが認められているのです。
スコットランドやウェールズ、そして北アイルランドにも優秀な選手がいるのだから、イギリスチームとして全土の優秀な選手を集めて戦ったほうがいいのではないか、と思う方もいるかと思いますが、実はスコットランドやウェールズにとっては、渋々イギリス連邦に入っているような気持ちが強く、サッカーやラグビーの時こそ自分たちのナショナリズムを鼓舞できる機会と考えているのです。イングランドにしても、「自分たちだけで戦いたい」との思いになるのです。
スコットランドは独自の通貨を流通させていますし、ウェールズに至っては、最近では英語ではなく、まったく違う言語のウェールズ語を話そうという機運が高まっているくらい、独立心が旺盛です。スコットランドでは、イギリスからの独立の是非を問う国民投票を行う話が再び盛り上がっています。
しかし、「イングランドチームではなく、イギリスチームなら世界最強なんだけどね」というのも、イギリス人の負け惜しみとして有名な言葉です。
音楽ではイタリアを上回る大国となったイギリス
さて、今回はサッカー発祥のイギリスが、サッカー大国のイタリアに敗れたわけですが、音楽産業の世界ではまったく逆で、音楽発祥のイタリアであっても、経済大国イギリスにはかないません。それどころか、現在のヨーロッパの音楽産業は、イギリスの音楽事務所に牛耳られているのです。
このような状況は、実は18世紀頃から同じで、たとえば『メサイア』の作曲者として有名なヘンデルは、ドイツ人の作曲家としてではなく、音楽の本場イタリアで認められた作曲家として、イギリスに渡って大成功していました。当時のイギリスでは、オペラの歌詞もイタリア語だったくらい音楽といえばイタリアで、イタリアが花開かせた才能を、イギリス人が大金に物を言わせて享受していたのです
そう考えれば、作曲家モーツァルトの父親の野望にも触れないわけにはいきません。彼は幼少の頃から“天才少年”としてヨーロッパ中を旅していましたが、イギリスのロンドンでは1年3カ月も滞在していました。かなりの長期間ですから、何か意図があったと考えるほうが自然です。ヨーロッパ随一の音楽産業大国であったイギリスで大成功したら一獲千金を得られると、ステージパパのレオポルド・モーツァルトは考えたに違いありません。
しかし、当時のモーツァルトはわずか8歳だったのでイギリスで職を得ることはできません。そこでロンドンでは、ドイツの作曲家バッハの息子でありイタリアでデビューしたのちにイギリスで大成功を収めていたヨハン・クリスチャン・バッハ(ドイツの巨匠、ヨハン・セバスチャン・バッハの息子)から、イタリアの音楽スタイルを学んでいました。大成功のためには、イタリアの音楽スタイルをしっかりと身につけることが必須だとよくわかったのか、その後のモーツァルトは、父親に連れられて2度もイタリアに行くことになります。
そうしてイタリアで作曲技術を完全にマスターしたモーツァルトですが、再びイギリスに行くことはなく、当時、イタリア人作曲家ばかりで占められていたオーストリア皇室に、意気揚々と殴り込みをかけたのです。とはいえ、モーツァルトが35歳の若さで亡くなっていなかったら、お金に困っていた晩年の彼は、一儲けするためにイギリスに渡ったかもしれません。
モーツァルトが死の床にいたちょうどそのとき、同国オーストリアの先輩作曲家のハイドンは、音楽産業大国のイギリスの音楽プロモーターに高額な報酬で招かれたのです。パトロンである王侯貴族の没落が始まっていたオーストリアからロンドンへ渡り、それまで見たことがないような大規模のオーケストラに作曲して、空前の大成功を収めました。しかし残念なことに、そんなハイドンが意気揚々と帰国したときには、大成功のニュースを話す相手だったモーツァルトはすでに亡くなっていたのです。
(文=篠崎靖男/指揮者)