1950年のNHK(日本放送協会)の放送開始からさかのぼること28年、1922年に設立されたイギリスのBBC(英国放送協会)ですが、現在、イギリス国内で大きな話題となっています。
ボリス・ジョンソン政権により、これまでの受信料制度を見直し、視聴状況に応じて課金する制度を導入する案が浮上しているそうです。これに対してはさまざまな意見があるようですが、イギリス政府としては2028年から課金制度に移行させる方針と報じられています。
日本においてもNHKの受信料については、スクランブル化を求める声など、これまでにさまざまな意見がありました。現在の受信料は、地上契約で年間1万3650円ですが、衛星放送を入れると2万4185円に跳ね上がります。
一方、イギリスでは、テレビに限らず、タブレットなどテレビ信号を受信できる機器を持っているだけで、一世帯当たり年間159ポンド(約2万5000円)を支払わなくてはなりません。違反者には罰金刑が科せられるほど厳しい制度で、テレビを見ていることを隠しても、テレビ受信を察知するアンテナを備えたクルマが街のいたる所を走っており、受信していることが見つかってしまいます。
僕もイギリスに在住していた頃には、「本当に見つけられて罰金を払うことになるから、ちゃんと支払ったほうがいいよ」と、よく聞かされました。ちなみに、罰金は1000ポンド(約15万円)にも上ります。当然、未払いの受信料も別に支払わなくてはなりません。
今回のBBCの受信料に対する動きが、NHKをはじめとして世界中の公共放送のあり方に影響を与えるのではと話題になっているようです。そんなテレビですが、日本のコンサートホールの楽屋には、必ず1台ずつ設置されています。しかし、楽屋のテレビは、NHKの受信料を支払わなくてよい場合がほとんどでしょう。理由は後述します。
指揮者にとって不可欠な楽屋のテレビ
少し話が逸れてしまいますが、オーケストラでは指揮者のことを「マエストロ」と呼びます。語源はイタリア語で、英語でいえば「マスター」ですが、“熟達した人”という意味です。指揮者だけではなく、イタリアでは著名な作曲家でも演奏家でも「マエストロ」と呼ばれるのですが、日本を含めた他の国々では指揮者を呼ぶときに使われて、英語圏でも指揮者を「マスター」と呼ぶことはなく「マエストロ」です。
意地悪いことをいえば、オーケストラの楽員にとっては毎週、違う指揮者が指揮しにやってくるわけで、いちいち名前を覚えておくことは大変だし、外国から来る指揮者のなかには、発音するのが難しい名前の人もいるので、「マエストロ」は便利な言葉なのだと思います。
そんな指揮者の出番直前に、「マエストロ、チューニングが始まりました」と言葉をかけられます。オーケストラは時には100名以上の演奏者が、10種類以上の別々の楽器を演奏するので、最初にコンサートマスターがチューニングを行い、全体が音を整えてから、指揮者が登場して演奏が始まります。
チューニングには30秒くらいかかりますが、指揮者からすれば、チューニングが始まってからステージに向かうと、登場するタイミングはギリギリです。日本では少し余裕を持って、「マエストロ、楽員が舞台に入りました」と声がかかるほうが多いのですが、日本と違ってのんびりしている欧米のオーケストラでは、楽屋のドアをノックされて「マエストロ、チューニングが終わりました」などと言われることも多く、生真面目な日本人指揮者の僕は、大慌てでステージドアへと走ることになるのです。
もちろん、お呼びがかかってから蝶ネクタイを締めたり、服を着替えたりしている時間はありません。何よりも、演奏に向けて気持ちも高めていかなくてはならないので、急に声をかけられても困ってしまいます。
そこで、楽屋のテレビが役立つのです。スイッチを入れるとステージが映っており、それさえ見ていれば、楽員がステージに入り始めるのは一目瞭然です。「さあ行こう!」と楽屋のドアを開けたら、ちょうど呼びに来てくれたステージマネージャーが目の前に立っているなんてことも、よくあります。テレビは楽員の大きな楽屋にも置かれており、曲によっては出番のない楽員は、テレビを見ながら自分の出番を待つこともできます。
楽屋のテレビのチャンネルを変えると、次に客席が映ります。それを見ながら、「今日のお客の入りは、そこそこ良いぞ」とか、「知り合いが来てくれている」といったことがわかります。さらにチャンネルを変えれば、ロビーです。開演直前にもかかわらず、入り口からロビーにまだまだお客さんが入ってくるのを見ながら、「少し開演が遅れるかな?」などと思っていると、「マエストロ、5分押しです」とステージマネージャーから開始を遅らせる知らせがかかったりします。
ちなみに、ステージ、客席、ロビーのテレビ画像の本来の目的は、舞台袖にいるステージマネージャーが忙しそうにチャンネルを変えながら、客の動きを即座に判断するためにあります。指揮者のためではありません。
楽屋のテレビに一般放送はまったく映らない?
ところで、その次へチャンネルを進めると、一般のテレビ放送を見ることができるかと思いきや、特に公共ホールでは何も映らないことが多いのです。なかには一般放送を見ることができるホールもあるのですが、長い休憩中に、どうしても気になっているニュースを見たいと思っていたのに、見ることができないと少しガッカリします。
もちろん、テレビはあくまでもホール内のさまざまな場所を映し出すためにあり、ホール側としては、業務と関係のないNHK受信料を支払う予算がないのかもしれません。一般放送が映らなければ、テレビではなく単なるモニターですから、受信料はかかりません。
そんな楽屋のテレビですが、仕事道具のトランペットをアンテナにして、コードをつないで一般放送を見ることができたとはしゃいでいる奏者もいたりします。これが、日本ではなくイギリスだったら、アンテナ車に見つかってしまうかもしれません。
コンサートホールには、オーケストラが演奏する大ホールのほかに、ピアノリサイタルや、小編成の室内楽に使われる小ホールが入っていることが多く、楽屋のテレビで違う団体の演奏風景を盗み見することもできます。残念ながら、テレビモニターからは音が聞こえてこないので、あくまでも画像だけですが、同じホール内で、まったく違う催し物が同時進行しているのを不思議に思ったりしながら、「マエストロ、チューニングが始まりました」という声とともに、僕はステージに向かっていくのです。
(文=篠崎靖男/指揮者)