「指揮者だけはわからない」
これは日本で有数の音楽事務所の中心的人物のひとりとして長年、日本のみならず世界の超一流指揮者やソリスト、オーケストラ、オペラのマネジメントを手がけてこられ、音楽業界では知らない人がいないような方から伺った言葉です。
指揮者の何がわからないのかというと、なぜこの指揮者が認められているのか、もっと言えば、どうしてこの指揮者の指揮から、最高のオーケストラサウンドが引き出されるのか、まったくわからないという意味なのです。
僕も、自分が指揮を振るだけでなく、これまで多くの指揮者を見てきました。なかには「見ているだけで音楽が湧いてくるような凄い指揮」と、うならされるような指揮者はいます。20世紀の大巨匠ヘルベルト・フォン・カラヤン氏や、日本を代表する指揮者・小澤征爾氏などは、見ているだけで感動するくらいです。
美しくエレガントな指揮をして、素晴らしい音楽を奏でるだけでなく、世界中の女性ファンも虜にするような指揮者もいます。しかし、ものすごく不器用で、お世辞にも美しいとはいえない指揮をしているにもかかわらず、オーケストラから引き出している音楽は感動的で、こよなく美しいという指揮者もいるのです。
指揮というのは不思議です。きれいでわかりやすい指揮であっても、オーケストラから出る音楽がそれほどでもない指揮者もいれば、ただ3拍子や4拍子の形を淡々と指揮しているだけにもかかわらず、ものすごい音楽が出てくる指揮者もいます。「こんな指揮なのに、なぜ飛び抜けて大活躍をしているのかわからない」という疑問こそが、長年マネージャーをしていた方の結論なのだと思います。
「指揮者で、音は変わるのでしょうか?」
これは、よく聞かれる質問です。最初に答えを申しますと、Yesであり、Noでもあります。どんな指揮者が指揮をしても、ベートーヴェン交響曲第5番『運命』の音楽は同じです。ここがクラシック音楽と、ジャズやポップスとの違いです。
クラシック音楽の場合、たとえば、ある種の現代音楽のように「ここからは好きに弾いてほしい」といった指示がない限り、楽譜の通りに演奏します。『運命』は誰が演奏しても「ジャジャジャジャーン」で始まり、仮に指揮者が「今回は“ジャジャーン”にしてほしい」と言ったところで、オーケストラの楽員は困ったような、怒ったような顔をしておしまいです。もっと言えば、テンポが速すぎたり遅すぎたりするだけでも、困った顔をして「本番もこのテンポでしょうか?」と、怒ったように質問されてしまいます。
では、誰が指揮をしてもまったく同じかといえば、そうではなく、「ジャジャジャジャーン」ひとつを取っても、指揮者によって個性が出てきます。同じオーケストラにもかかわらず、「ドドドドーン」という演奏をさせてしまう指揮者や、「ダーダーダーダーン」と弾かせる指揮者もいます。
もちろん、口頭で「こういうふうにやりたい」とオーケストラに指示することもありますが、基本的には指揮棒を持った右腕一本でオーケストラにイメージを伝えていきます。熟練したオーケストラメンバーであれば、その指揮ぶりから、すぐさま指揮者のやりたいことを読み取って演奏するのです。しかし、独特なスタイルで、「そんな指揮から、どのようにしてこのような音が出るのかわからない」という指揮者も少なくありません。。
指揮者とオーケストラの不思議な関係
「男と生まれてなってみたいものは、オーケストラの指揮者と連合艦隊の司令長官、それとプロ野球の監督であるという言葉がある。男子憧れの職業や。ワシは監督になれたんやから幸せ」
これは、名監督の故野村克也さんの言葉です。とはいえ僕は男に生まれましたが、別に連合艦隊の司令長官になりたいと思ったこともなく、野球の監督を頼まれてもすぐに断るでしょう。指揮者にしても、男に生まれたことでなりたかったわけではなく、単純に音楽とオーケストラが好きだっただけです。おそらく野村克也さんも、指揮者になりたくはなかったはずです。
指揮者には、大まかに言って2つのタイプがあるようです。ひとつ目は、オーケストラと仲良くしながら、時には笑顔も振りまきながら指揮をするタイプ。これは、アメリカに多いのですが、今では世界的に主流になっています。現在の指揮者は、演奏会を終えた翌日に国際線に飛び乗り、すぐに違う国で指揮をするということを頻繁に行う時代なので、昔のように一つのオーケストラに君臨して、活動の大半がそのオーケストラに睨みをきかせて指揮するといった指揮者はほとんどいなくなったからでしょう。
もう一方は、それこそ一つのオーケストラに君臨する、昔ながらの専制君主のようなタイプです。かつては、まるで連合艦隊の司令長官のように絶対的権力を持ってオーケストラを牛耳るような指揮者がたくさんいました。その傍若無人ぶりは今では考えられないようなもので、20世紀中頃に活躍したイタリアの巨匠トスカニーニなどは、リハーサル中に気に入らない楽員に対して「アウト」と言えば、クビの意味でした。オーケストラに組合ができてからは、そのような横暴はなくなりましたが、決して珍しい光景ではなかったようです。
またロシアで、いつまでも休憩を取ってくれない指揮者に耐えきれなくなった楽員のひとりが、「すみません、トイレに行きたいのです」と言っただけで、「行っていいけれど、もう帰ってこなくていい」と指揮者が言ったという話を聞いたことがあります。
ロシアや東ヨーロッパでは今でもそのような気配は残っていますが、そうやって絶対的権力で楽員を押さえつけている指揮者とオーケストラの演奏が重苦しいかといえば、不思議なことにオーケストラはのびのびと演奏している大名演だったりすることがよくあります。トスカニーニにしても、実はオーケストラからはものすごく尊敬されていたのです。
指揮は不思議です。そして指揮者とオーケストラの関係は、もっと不思議です。
さて、本連載「世界を渡り歩いた指揮者の目」も今回で200回となりました。最初は20回も書けば打ち切りになるだろうと思っていたのですが、こんなに長く書き続けることができているのは、応援してくださる読者の皆様のおかげだと感謝しております。これからも音楽やオーケストラのお話を書いて参りますので、この連載を読んで、音楽に興味がない方でも、「一度、コンサートに行ってみようかな」と思っていただくきっかけになれば幸いです。これからもよろしくお願いします。
(文=篠崎靖男/指揮者)