いよいよ衆議院議員選挙が明日になりました。ポスト・コロナ時代を左右する大事な選挙となるので、多くの方々にしっかりと投票してほしいと思います。
選挙はオーケストラの世界と無縁だと思われるかもしれませんが、実はオーケストラにも選挙はあるのです。とはいえ、衆議院議員を選んだり知事を選んだりするようなものではなく、新しい楽員を迎えるにあたって、オーケストラの団員が投票をするのです。
以前に本連載でも紹介しましたが、オーケストラ団員になるためにはオーディションを受けなくてはなりません。そこでは実力はもちろん、運も大事になります。運といっても、「今日はなぜか、これまでできなかったような良い演奏ができた」というような偶然性のことではありません。もちろん、そういう面も無きにしもあらずですが、オーディションは一次審査、二次審査、最終審査と何度も演奏しなくてはならないので、運が良かったくらいでは、あっという間に本当の実力がばれてしまいます。
ここでいう運というのは、オーケストラに自分の楽器のポジションの空きがあるかどうかを指します。
オーケストラに一人ずつしか必要ではない楽器、すなわちチューバやハープなどは、オーディションに受かって見事、楽員になれれば、定年まで30年以上在籍するのが普通です。たとえば、音楽大学時代に“超天才”と呼ばれるチューバ奏者がいて、国内のオーケストラに所属するどの現役奏者より上手だったとしても、誰かが退団しない限りオーディションが行われません。つまり、チャンスすらないので、フリーのチューバ奏者になることになります。そういった意味で、運が必要なのです。
そんなオーケストラのオーディションで行われる一次審査、二次審査、最終審査では、楽員から選ばれたオーディション委員か、オーケストラ全員かは、オーケストラによって違いはありますが、ほとんどは匿名で投票を行い、一人の奏者を選ぶことになります。ヴァイオリンのような多くの奏者が必要になる楽器は、複数名を同時に選ぶこともありますが、衆議院選挙と大きく違うのは、オーケストラの選挙は顔出しを厳禁としていることなのです。
政治家の選挙の場合、顔を出すのは基本中の基本となります。選挙ポスターには、候補者の顔写真と名前が大きく掲載されています。このコロナ禍では、以前のように元気いっぱいでやる気を感じさせる写真ではなく、世相を反映して、落ち着いた笑顔と頼もしさを打ち出した写真がはやっているそうですが、どちらにしても、自分の一番良い顔をポスターに使用し、選挙カーでも、遊説先でも、満面の笑みで、一人でも多くの選挙民に顔と名前を覚えてもらおうとするわけです。
一方、オーケストラのオーディションでは顔はもちろん、名前すらも隠されます。この選挙方法は一次審査のみがほとんどですが、二次審査まで行われたり、国によっては最終審査まで続きます。
演奏する候補者と審査員の間にはカーテンが引かれ、名前も番号化されて投票が行われるのです。これは、審査をフェアにするためです。意外と狭い音楽業界では、音楽大学を卒業したばかりの候補者を審査しているオーケストラ団員の一人が、つい先月までレッスンを授けていた師匠だったりすることもありますし、場合によっては同じ音楽家の父親ということもあり得ます。
実際に、外国に行くと親子で一緒に演奏しているようなオーケストラも結構あります。しかし、そこはオーディションなので、審査時に不正が行われないように細心の注意が払われています。そのため、自分の愛弟子に「NO」を書いてしまうこともあるかもしれません。
オーディション通過後にも待ち受ける困難
そんなオーディションを通過して見事に合格しても、その後には1年間の試用期間が待っています。欧米では、一般企業でもポピュラーな制度ですが、日本企業ではまだまだ浸透していないようです。しかし、日本のオーケストラでは、欧米のように盛んに行われています。
オーディションはたった一日で候補者を見極めなくてならず、あくまでも個人技を審査することしかできないので、1年間かけてオーケストラとの合奏能力、ほかの奏者との協調性、さまざまなコンサートに対する柔軟な対応力などを、同じ楽器以外のメンバーからもしっかりと見られて、1年後に投票となります。
衆議院選挙が、どんなに投票率が低くても得票数がもっとも多い人が当選することになるのとは違って、オーケストラの投票は「YES」か「NO」の二択です。「NO」が多ければ当該候補者は入団が認められず、数カ月後にあらためてオーディションが行われることとなるのです。
そこで思い出したのですが、ドイツのあるオーケストラで、試用期間後に「NO=不採用」となった金管楽器奏者がいました。オーディションでは文句なしの腕前だったのですが、1年後、なぜかオーケストラとしては採用に至らなかったのです。その後、もちろんあらためてオーディションが行われました。このオーケストラでは、最終審査までカーテンで仕切ることとなっており、勝者が決まって初めて履歴書と顔と名前が一致するシステムでした。
オーディションを行うとカーテンの向こうから、前回のようにずば抜けた演奏が聞こえてきました。二次審査、最終審査まで進み、メンバーは文句なしにその候補者へ投票したのです。そしてカーテンが開き顔を出したのは、なんと試用期間後に不採用となった奏者でした。「僕でーす」と言ったかどうかは存じませんが、「さようなら!」と嘲笑しながら、唖然としているメンバーを尻目に会場を去っていったそうです。これは、ドイツの金管奏者の間では有名な話です。
指揮者も投票で選ばれて、契約延長の際もオーケストラ全員の投票で決まる国があります。それは、僕が8年間、芸術監督を務めたフィンランドです。もちろん、2年ごとに行われる契約延長前に選挙運動をしたり、わざとらしく楽員に笑顔を振りまくようなことはしませんでしたが、同国では異例なほどの長期間、指揮者に選んでもらえました。そんな経験から、数年ごとに選挙で選び直される国会議員の気持ちがわからないでもありません。
(文=篠崎靖男/指揮者)