フランス・パリのルーブル博物館で展示されている世界的名画「モナ・リザ」に、来館中の男がクリーム菓子を投げつけたというショッキングなニュースが世界を駆け巡っています。
この男は高齢女性に扮して車いすに乗って「モナ・リザ」に近寄り、急に立ち上がって、訳のわからないことを言いながら犯行に及んだそうです。すぐさまその男は取り押さえられましたが、精神疾患の疑いも指摘されており、パリの検察当局により文化財毀損未遂の疑いで捜査が開始されていると報じられています。
イタリア・ルネッサンスの大巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチの最高傑作ともいわれる「モナ・リザ」は危うく破損の危機に瀕したわけですが、幸運なことに防弾ガラス製ケースによって保護されており、クリームがべったりとガラスの表面に塗りつけられただけで済みました。
僕もルーブル博物館で「モナ・リザ」を観賞した際、ほかの作品と違いガラスケース越しに鑑賞することを不思議に思っていたのですが、こういうことが起こると、なぜ特別扱いしているのかがよくわかります。
実は、これまでにも「モナ・リザ」は受難続きなのです。1911年に盗難事件があったことは有名ですが、1956年には観客から酸を浴びせられて大きく損傷しただけでなく、同年12月に石を投げつけられて再び損傷する事件も起こりました。その後、ガラス張りで保護されることとなったそうです。
さらに、「モナ・リザ」の受難はこれで終わりません。なんと日本でも起こったのです。1974年に「モナ・リザ」が来日して、日本中が大騒ぎになったときのことです。展示されていた東京国立博物館の職員の対応に憤った観客によって赤いスプレーを吹き付けられたのです。最近でも、フランスの市民権取得を拒否された外国人女性によって、土産物店で買ったコップを投げつけられたことがありますが、両方ともに、防護ガラスのおかげで難を無事逃れています。
世界でもっとも知られている名画だけにターゲットにされてしまうのかもしれませんが、「モナ・リザ」にとっては、美術館の職員の対応やフランスの市民権などはまったく関係ないことで、単なるトバッチリです。そもそも、この「モナ・リザ」という名前自体も、勝手に変えられてしまっていることをご存じでしょうか。
僕も「モナ・リザ」は、ダ・ヴィンチが付けたタイトルだと思っていましたが、友人のイタリア人が、「やすお、モナ・リザはフランス人が勝手に付けた名前で、本当はラ・ジョコンダという女性の名前なんだよ」と教えてくれました。イタリア人にとっては、イタリアが誇るダ・ヴィンチの大傑作だけに、そこは譲れないようです。とはいえ、「ラ・ジョコンダ」よりも「モナ・リザ」のほうが、なんだか秘密めいていて、興味を引きつけられるように思います。
作曲者が命名していない『運命』や『G線上のアリア』
実は音楽にも、元は作者が名付けたわけではないタイトルによって有名な曲になった例が、たくさんあります。
ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』も、その代表です。この交響曲も「モナ・リザ」と同じく、世界中で知らない人がいないくらい超有名ですが、実はベートーヴェンが付けたタイトルではありません。弟子が「最初のジャ・ジャ・ジャ・ジャーンは何を表しているのか?」と質問したところ、ベートーヴェンが「このように運命は扉を叩く」と答えたことによるとの話もありますが、その信憑性はともかく、ベートーヴェンが『運命』と名付けたことはなく、楽譜の表紙を見ても「交響曲第5番」としか書かれていないのです。
ほかにも同様の例はありすぎるので、すべてを紹介することはできませんが、結婚式、入学式、卒業式、告別式など、「どんな式典でも、この曲さえ流しておけば大丈夫」といえるほど万能なバッハの『G線上のアリア』も、バッハが命名した曲名ではありません。
ちなみに、ヴァイオリンには低い音からG線、D線、A線、E線という4本の弦が張られており、それぞれ音色も違うために、同じ音符であってもどの弦を選ぶのかがヴァイオリニストのセンスの見せどころでもあります。『G線上のアリア』は、その一番低いG線、懐の深い音色を特徴とした弦で弾かれる曲なのです。
ところが、18世紀にバッハがパトロンである領主の求めに応じて作曲した時には、5曲からなる管弦楽組曲の第2曲目“アリア”でしかありませんでした。それを19世紀後半になって、ある著名ヴァイオリニストが編曲してG線だけで弾けるようしたところ、「G線だけで弾く曲」との特異性も手伝い、大ヒットしたのです。
もちろん、現在ではバッハのオリジナル楽譜で演奏し、G線以外も使用するのですが、それでも、観客はこの曲が流れると「やはり『G線上のアリア』はいいなあ」と感激するのです。
どんなに名曲でも、タイトルがないと埋もれがち
クラシック音楽では、このように曲にタイトルがあることで超人気曲になることが多くあります。先述したベートーヴェンの交響曲などは代表的で、3番『英雄』、5番『運命』、6番『田園』、9番『合唱付き』などは、実際に作曲家が名付けたのは、『英雄』と『田園』だけですが、演奏会でおなじみの大人気曲になっています。その一方、音楽的にまったく見劣りしない4番、7番などにはタイトルがないために、埋もれがちになってしまっているのは残念に思います。ちなみに、日本国内では映画『のだめカンタービレ』(東宝)に使われたことで、交響曲第7番は人気曲になりました。
ほかの作曲家でも、たとえばチャイコフスキーの代表作との評価が高い交響曲第6番は、『悲愴』というタイトルを本人が付けたことが大きく功を奏しているのに比べて、第4番、第5番は同じレベルか、もしかしたらそれ以上の出来映えと言っても差し支えないにもかかわらず、タイトルがないことで損をしていると思います。
典型的なのはブラームスです。4曲の交響曲はどれもすばらしいのですが、一つとしてタイトルがありません。そこで40年ほど前、あるレコード会社が考えた販売促進策は、第1番『ブラームスの運命交響曲』、第2番『ブラームスの田園交響曲』と、ベートーヴェンのタイトルにあやかって大々的にアピールすることでした。しかし、あまりにもひどい話ですし、実際に精彩を欠いていたことで、あっという間にこのキャッチフレーズはなくなってしまいました。
さらにひどいと僕が思うのは、シューベルトの交響曲第7番と第8番です。第7番のタイトル『未完成』は、何か秘められた思惑を感じさせてくれますが、種明かしをすれば、通常は4楽章ある交響曲を、シューベルトが2楽章までで作曲をやめてしまったというだけなのです。
第8番には『グレート』というタイトルが付けられていますが、『未完成』と同じくシューベルトが付けたわけではありません。彼の死後にイギリスの楽譜出版社が出版する際に、小規模な交響曲第6番も同じハ長調なので、区別するために“大きなほうのハ長調交響曲”という意味で名付けたそうです。僕も若い頃は、“スケールが大きな交響曲”と心を膨らませていましたが、「知らぬが仏」という言葉どおり、真実を知ってガッカリした一人です。
イギリスの出版社の話をしましたが、イギリス人の商魂たくましさを表す有名な例があります。ドヴォルザークの交響曲第8番『イギリス』は、作曲家の意図とまったく関係のないタイトルによって売れる交響曲になったのです。僕も中学生の頃に初めて聴いた時には、「どこがイギリス風なのだろうか」と想像を膨らませ、わくわくしながら聴いていましたが、後になって、まったく関係のないタイトルだと知った時には、その理由も含めて驚いてしまいました。
確かに、この交響曲第8番にはイギリス風のメロディーなどなく、むしろ彼の祖国チェコの音楽そのものです。では、なぜ『イギリス』というタイトルが付けられたのかといえば、交響曲第8番の出版に際してドヴォルザークは、それまで作品を出版していたチェコ国内のなじみの出版社と揉めてしまい、イギリスの出版社から出版されることになり、「イギリス」というあだ名が付いたことがきっかけでした。
次の交響曲第9番には、作曲家自身によって『新世界より』という素敵なタイトルが付けられているだけに、あだ名から始まったタイトル『イギリス』が、販売促進にも大変有効だったことは確かです。最近では『イギリス』と呼ばれることはなくなっていますが、以前はこのタイトルのおかげで、ずいぶん得をした交響曲だったのです。
もし日本の出版社から出版されていたら、ドヴォルザーク作曲、交響曲第8番『ジャパン』となったかもしれないと思うと、個人的には残念です。
(文=篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師)