軽井沢名物モカソフト、40年以上人気の秘密 生産の大規模&効率化に逆行戦略が奏功
●「子どもが食べられるコーヒー」として開発
モカソフトの開発秘話は、別荘族の存在を抜きには語れない。
「日本を代表する別荘地」として有名な軽井沢は、町の至るところに別荘があり、一歩メイン道路を外れて歩いていると、どこかの別荘へと道が続く。
最初に同社が軽井沢に出した店は、人通りの少ない場所でうまくいかなかったが、当時から別荘族の散歩で人出が多かった現在地に移転してから、大変な人気店となった。
当時、軽井沢を訪れる大人はコーヒーを楽しめたが、子どもはジュースぐらいしか飲めるものがなかった。そこで金坂氏が「子どもにもコーヒーの味を楽しんでもらおう」と開発したのがモカソフトである。開発当時は「食べるコーヒー」というコンセプトだった。
ミカド社内では、モカソフトは限られた従業員しか扱うことができず“巻き手”と呼ばれる。特に4・5月の大型連休や夏の最盛期は、「モカソフトを5本ください」といったまとめ買いの注文も多い。
ソフトクリームを上手に巻くのは難しく、長い行列をつくるお客の要望に次々と対応するには、スピードと出来ばえの両方を兼ね備えた熟練の技が求められる。
現在の同社社長である鳴島佳津子氏(金坂氏の長女)は、高校時代から同店でアルバイトをしてきた。そんな経歴を持つ社長でも「巻き手としては、まったく通用しない」という。
●流行しても効率化させずに、手間をかけ続けた
モカソフトを一躍有名にしたのは、「アンノン族」と呼ばれた当時の若い女性だ。アンノン族とは、モカソフト発売の翌70年に創刊された女性ファッション誌「an・an ELLE JAPON(アンアン エルジャポン)』(現在の「an・an』<マガジンハウス>)、71年に創刊された「non-no』(集英社)が大人気となり、これらの雑誌を片手に観光を楽しんだ女性客のこと。この頃、若い女性の間でミカドコーヒーのモカソフトを食べながら旧軽井沢メインストリート(旧軽銀座)を歩くことが流行した。それを複数のメディアが取り上げ、店の人気をより一層高めたのだ。
そうはいっても、ただ流行に踊っているだけでは、やがて飽きられてしまう。当たり前だが、飲食の場合は特に、真面目につくることが絶対条件となる。
もしミカドコーヒーが多くの注文客をさばくために、製造過程を大規模化・効率化させてモカソフトをつくっていたら、他の工業製品と差別化できない味となり、人気は続かなかっただろう。
これを開発した金坂氏は生前、「軽井沢の高原の空気を吸ってぶらぶらと歩き、モカソフトを食べる気分は最高なんだよな。外国ではよく見られる光景だけど、これがまた格好いいんだよ」と語っていたという。
ミカドコーヒーがその創業者精神を忘れずに、お客の声と向き合って真摯なモノづくりを続ける限り、繁忙期にモカソフトを求める人の行列も続くはずだ。
(文=高井尚之/経済ジャーナリスト)