●戦後の大物実力者たちとの親交
水島氏は波瀾万丈の人生で知られている。田中角栄元首相の刎頚の友といわれ、国際興業社主・小佐野賢治氏や戦後最大のフィクサーと呼ばれた児玉誉士夫氏など大物実力者たちと親しく交わってきた。
1973年、児玉氏の使者として海運大手ジャパンラインの乗っ取りを仕掛けた三光汽船の河本敏夫氏との間で和解を取り付けたことが、水島氏の名前を一気に高めた。水島氏は「古巣の日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)を救った」エピソードとして、この和解劇の顛末をしばしば周囲に語っていた。「新潮45」(新潮社/2001年9月号)の手記『善悪は存知せざるなり』で水島氏は、次のように書いている。
「興銀には銀行に貢献してくれた社外のOBに金杯を贈る制度があり、その受賞者は今まで三人。(中略)一人が私です。かつてジャパンラインの株が河本敏夫元副総理の三光汽船に買い占められた事件があり、福田赳夫元首相と野村証券の瀬川美能留元社長に頼まれて私が仲裁裁定してあげたことがある。興銀がジャパンラインのメインバンクだった関係で私に金杯を贈ってきました」
水島氏は、毎年正月に、その金杯で酒を飲んだというが、興銀時代の水島氏は不遇だった。東大閥が主流の興銀では中央大卒の水島氏は出世できなかった。同期が常務になる中、部長にすらなっていなかった。そごうの社長になったのも、興銀をいつか見返してやろうという意地からだった。
三光汽船に株を買い占められたジャパンライン社長の土屋研一氏が「河本原爆(三光汽船社長の河本氏)に対するには児玉水爆しかない」と判断し、児玉氏に仲裁を頼んだ。ジャパンラインは、当時、企業などが経済紛争を裏で解決したい時の相談窓口的存在だった児玉氏に解決の交渉を一任したのである。
だが、児玉氏の豪腕をもってしても三光汽船との交渉がまとまらなかった。そこで児玉氏が最後に使った切り札が、そごう社長(当時)の水島氏だった。水島氏はジャパンラインのメインバンクである興銀の出身で、興銀と三光汽船両方の重要ポストに人脈を持っていた。水島氏は河本氏との直談判で交渉をまとめた。
●試練にまみれた晩年
73年4月、児玉氏、水島氏の立会いのもと、三光汽船社長・河本氏とジャパンライン社長・土屋氏が和解の協定書に署名捺印した。三光汽船は買い占めた1億4000万株をジャパンラインに返却し、総額500億円がジャパンラインから三光汽船へ支払われ、事件は決着した。