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百戦錬磨のジャーナリストは、なぜ“あえて”タブーを犯したのか?

橋下・朝日騒動、筆者佐野眞一を暴走させた“良心”とカラクリ

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 同時に、篠崎充社長代行が、記事掲載・事後対応の経緯報告書と再発防止策などに関する文書を携えて大阪市役所に橋下市長を訪ねて陳謝した。この間、橋下市長の、親会社である朝日新聞に対する取材ボイコット発言などもあったが、形の上では朝日新聞出版側の全面敗北で事は終わったわけである。

●避けるべき表現

 それにしても、なぜこうした記事が出てしまったのだろうか?

 経緯報告書によれば『ハシシタ 奴の本性』というタイトルは担当デスクの提案で、以前「週刊ポスト」に連載され、書籍化され小学館から刊行された『あんぽん 孫正義伝』に影響されたという。このタイトルを聞いた佐野氏が、いかつい顔を獲物を見つけた猟師のようにほころばせた様が筆者には想像された。

 しかしそうであっても、佐野氏がこのタイトル案を聞いたとき、「これは仮タイトルならいいが、本タイトルだとするには無理がある」と編集サイドに釘を刺さなかったということが疑問なのである。「ハシシタ」「奴」「本性」といった言葉は、売らんかなの週刊誌であるにしても、いささか乱暴で侮蔑的な言葉遣いである。私自身の感覚で言うと、ソフトバンクグループの総帥である孫氏は確かに公人ではあるが、それでも「あんぽん」というタイトルは氏にとって侮蔑的で差別的なものだし、やはり避けるべきだったろうと思うのである。最近の学校現場におけるイジメと同様、思いやる心のなさや鈍感さなどと通低する問題意識の欠如が、そこにはあるように思われてならない。

 筆者の印象では、佐野氏は面白がる人である。ノンフィクションを書くエネルギーは、やはりテーマが書き手の意欲を掻きたてるかどうかにある。佐野氏も同様にテーマに面白さを求める。面白さというのは、単なるエンターテインメント的なそれを言うのではないことはもちろんである。佐野氏は橋下氏という格好の材料を、タイトルが意図する書き方で料理することができることに、大いに興趣が湧いたのであろう。もちろん編集部サイドも面白がり、熱が上がり、相乗効果でつっ走ってしまった…。佐野氏自身は率直な意見を喜ぶ人だが、ノンフィクション界に佇立する大家と言ってもいい氏が機関車のように動き出せば、若い編集者、デスクは遠慮もあり、止めることができなかったという事態も想像できる。

 ここ数年、佐野氏は健康に不安があり、まだ老け込む年ではないが、持ち前の性急さがさらに性急になったのかとも思った。これはあくまでも、筆者の危惧でしかないのだが。

 記事を読む限り、佐野氏の橋下氏嫌いは徹底しているようだ。それ以上に橋下氏の登場を促した日本政治の今日的状況に、危機感を抱いているということのほうが正確かもしれない。いずれにしろそうしたことから、橋下氏の本性を徹底的に描き出してやろうと考えたに違いない。あわせて紙背からは、かつて漫才師横山ノック氏を大阪府知事に据え、今また橋下氏を日本政治の救世主扱いするような大阪的ポピュリズムに一泡吹かせてやりたいという意欲も満々に見えた。佐野氏のその強い意欲が、差別や人権問題などに関しては瞬時、何も見えなくしたのかもしれない。

●表現と報道の自由への強い意欲

 もうひとつ、こういうことも考えられる。先ほど部落問題に関するコードの話をしたが、一時期、部落問題に絡んで差別的言辞を弄したメディアや関係者が糾弾されたり、吊るし上げられたりすることが頻繁にあった。一方で部落問題に絡んで怪しげな利権の話がずいぶん流れたこともご存知の通りである。しかし、それらのことを含めて部落問題を扱うことはタブー視され、メディアの多くが触らぬ神にたたりなし的に扱ってきたことも否定できない事実である。

 佐野氏がこの記事を書くに当たって考えたもうひとつのこととは、部落問題を含めてメディアにはタブーがあってはならないということではなかったかと思う。橋下氏という公人を題材とすることでそのタブーを打ち破り、報道と表現の自由をあらためて確認したいという強い意欲が佐野氏にあったのではないか? 佐野氏が「言論の自由と表現の自由」に強い危機感を抱いていることは、多くの人の知るところだからである。そのことが今回の遠因であるようにも思う。

 さらにもうひとつ挙げるとすると、佐野氏は『私の体験的ノンフィクション術』(集英社)という著書にも記しているし、朝日新聞出版が今回の一連の事件を総括した際に出した「見解とお詫び」にも書いているように、「生まれ育った環境や、文化的歴史的な背景を取材し、その成果を書き込まなくては当該の人物を等身大に描いたとは言えず、ひいては読者の理解を得ることもできない」として、このことを、評伝を書く上の鉄則としているという点である。確かに正力松太郎を描いた『巨魁伝』(文藝春秋)にしても、中内功を取り上げた『カリスマ』(新潮社)にしても、この鉄則が貫かれている。

 ただそこに落とし穴があったと言うべきだろう。「見解とお詫び」にいみじくも佐野氏自身が書いているように、取材態度としてそうであり、また事実その点まで徹底して取材の網を広げたとしても、「取材で得た事実をすべて書くわけではありません」ということはノンフィクションといえども普通のことである。少しテクニカルな話になるが、とすれば部落問題の複雑性にかんがみ、佐野氏は、橋下氏の出自はともかく、氏の父親の出身地を特定できるような書き方は避けるべきではなかったかと思われるのだが、どうだろうか? 佐野氏は自らの鉄則、それはこれまで成功してきた方法論に他ならないのだが、それに自縄自縛になってしまっていたように思えてならない。

 いずれにしろメディアにはタブーがあってはならない、橋下氏は公人中の公人である。だから佐野氏は自らの鉄則に従い、橋下氏の出身地をあからさまに書いた。ただその際、のちに自らが反省しているように、現実にそこに住んでいる差別される側の人たちに対する温かい配慮が抜け落ちていたということでもあろう。

BusinessJournal編集部

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