戦国の乱世を終幕に導き、天下泰平の時代を築いた徳川家康は1616年に病没した。
ということは、来年の2016年は没後400年に当たるわけだが、「徳川家康公顕彰四百年記念事業」は、今年すでに開始されている。これは、仏教の世界では没後12年目に13回忌が行われるように、今年が家康の400回忌に当たるからだ。
8月7日からは、福岡県の福岡市博物館で「徳川家康没後400年記念『大関ヶ原展』」が開催されている。ややフライングの様相をみせながら、家康没後400年関連のさまざまなイベントが展開されているのだ。
一般的な没後400年目に当たる16年には、NHK大河ドラマ『真田丸』が放送され、主人公・真田一族のライバルとして家康が登場する。来年は来年で、さらに多くの関連イベントが開催されそうだ。
今から15年前の00年には、1600年の関ヶ原の戦いから400年目ということで、NKK大河ドラマで『葵 徳川三代』が放送された。
同作では、家康について時系列で追うのではなく、初回で家康の人生のクライマックスともいえる関ヶ原の戦いが描かれた。そのシーンは、大河ドラマ史上でも特筆すべきスケールを誇った。
家康は、小早川秀秋に東軍での参戦を促すため、陣取る松尾山に向けて銃を発射した。そして、秀秋はその恐怖心から寝返りを決意したとされる。
このエピソードは、過去の大河ドラマでは合戦の流れを決定づけるシーンとして描かれてきた。しかし、秀秋が陣取っていた松尾山の頂上付近は、当時の火縄銃の射程圏外にあった。そのため、家康が射撃しても、実はまったく脅威にならなかったのだ。
通説は、「合戦の流れは、家康が完全に握っている」という大前提で形成されている。そのため、現代の狙撃銃でさえも有効射程圏外の松尾山に火縄銃を撃って秀秋を翻意させるという、非常識なストーリーがいまだに語られているのだ。
徳川隊による松尾山への射撃は威嚇行為ではなく、参戦を促すための合図ののろしと見なすべきだろう。
それでも、小説やドラマでは威嚇射撃がないとストーリーを進行できないようで、中には「徳川隊は大砲を射撃した」という新説まで登場している。仮に大砲だったとしても、当時の大砲は砲弾が破裂するものではなかった。さらに、命中の精度が低かったことから、松尾山の秀秋に精神的動揺を与える確率はゼロに等しかったのだ。
現場に行けば、通説の矛盾を実感できる
小早川勢が陣取った松尾山は、山麓の駐車場から約40分歩けば山頂に到達する。頂上付近には土塁や空堀が残っており、松尾山がただの山ではなく、戦国時代末期に築かれた「山城」だったことがわかる。
松尾山には戦国時代後期から山城が築かれ、また東軍の関ヶ原突破に備え、西軍による増強工事がなされていた。
決戦の前日、小早川勢は西軍の守備隊を追い払って、松尾山に布陣する。当日を迎えると、小早川勢の幹部たちは安全な山頂から東西両軍が激突する様子を見極め、最終的には東軍として参戦、勝利の立役者となった。
松尾山が銃の射程圏外に位置することは、布陣図を見れば明らかだ。さらに、実際に山頂へ足を運んで古戦場を望めば、秀秋が射撃の恐怖から裏切りを決断したという通説には無理があることが実感できる。
今後も、実際に松尾山に登ったことのない人たちによって小説や脚本が執筆されれば、徳川隊の一斉射撃に恐怖する秀秋のシーンが繰り返し描かれるだろう。それについて憤慨するよりも、まずは自分の目で現地を確かめてみよう。そして、「登っていないから、通説の誤りに気づかないのだ」というように、上から目線で論じるのが、歴史ファンの正しい楽しみ方だと思う。
(文=外川淳/歴史アナリスト)
※参考文献:「歴史人」(2015年9月号、ベストセラーズ)特別付録『関ヶ原の歩き方』、「歴史通」(2015年5月号、ワック)連載記事『地図から読み解く戦国合戦 関ヶ原合戦 徳川家康vs石田三成』