2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』。その主人公の徳川家康は江戸幕府を開いた天下人として知られているが、それまでの道のりにはまさに波乱であった。そんな家康の人生に迫り、彼の危機回避術にフォーカスしているのが『家康クライシス -天下人の危機回避術-』(ワニブックス刊)だ。著者は歴史学者、作家、評論家の濱田浩一郎氏。三河一向一揆、三原ヶ原の戦い、伊賀超えなど、数々の迫りくる困難をいかに突破したのかが分かるようになっている。
掟を破っていた家康が危機を脱するためにやったこととは?
家康の危機回避の例を一つ紹介しよう。彼は豊臣秀吉の遺言を破ったことで問題になったことがある。慶長3年(1598年)8月、時の天下人・豊臣秀吉が京都の伏見城で死去。後継者で息子の秀頼は、秀吉の「大阪城に入城」との遺言に従い、大阪城に入った。
家康はこれにお供しているが、すぐに伏見城に戻っている。秀吉の遺言に「家康は伏見城の留守居の責任者とする」「家康は3年間、在京しなければならない」というものがあったからだ。家康は秀吉の遺言を守っているかに見えるが、実はそうではなかった。そのことで、慶長4年、家康は四大老や五奉行から糾問されることになる。家康はいったい何をしたのか。
実は以前に「諸大名の婚姻は、秀吉の許可を得た上で決定すること」という掟があったにも関わらず、家康は自らの息子や養女を諸大名に無断で婚姻関係を結ばせる約束をしていたのだ。
家康はこの危機を、誓約書を提出することで切り抜ける。その内容とは、
「今度の縁組のことについては、貴方たちの言うことを承知した。今後とも恨みに思わず、以前と変わりなく、諸事、親しくしたい」
「秀吉が定めた掟に違反したときは、10人の者が聞きつけ次第、互いに意見するように。それでも同心しなければ、残りの者が一同に意見すること」
「今後、掟に背いた者は、10人が取り調べたうえ、罪科に処すこと」
というものである。つまり、自らの非を認めて、今後は掟を守り、違反した際の対応策を記すことで、事態の収拾をはかったのだ。
ここで自分の非を認めないのは逆効果。潔く違反を認め、今後は掟を遵守することを表明する。そうすることで、自らの問題行動までも不問にした。家康の臨機応変な対応で危機を回避したのだ。こうした家康の危機回避能力の高さを知っておくと、大河ドラマもより楽しめるようになるだろう。また、私たちの普段の生活においても応用できることがあるはずだ。(T・N/新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。