毛利元就の美談「3本の矢」はウソだった?毛利家の秘められた衝撃の「真実」
近世以前の武士は、子どもをたくさんつくり、財産を分割相続させることで家の存続を図るというケースがほとんどでした。
場合によっては、子孫が敵と味方に分かれて一族が争うといったこともあるのですが、一方が負けても一方は残ります。これが分割相続の利点でした。
さて、大江広元には4人の息子がいました。面白いことに、長男の大江親広は後鳥羽上皇に味方して承久の乱に参加しています。つまり、幕府の敵側に回っているのです。
この、大江家の親子対決は意外と知られていない事実です。また一方で、四男の毛利季光は幕府側に立っており、大江家は兄弟でも対決することになりました。
承久の乱は幕府側の勝利に終わりましたが、幕府側ついた毛利季光は、後に北条氏の執権政治に不満を持ち、三浦氏と共に反乱を起こして大江一族は破れました。これが宝治合戦です。本当ならこれで大江一族は滅亡してしまうところだったのですが……。
しかし、毛利季光の四男である毛利経光が越後国の地頭をしており、大江家は存続することができたのです。この毛利経光が後に安芸国の地頭となり、吉田郡山城の城主となります。
「3本の矢」の逸話は嘘だった
これが後の戦国大名毛利家の始まりです。ようやくここで毛利元就の話となりました。毛利元就といえば、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人の息子に以下のような教訓を残したことで有名です。
「1本の矢ならば折れる。2本の矢でも折れる。しかし、3本の矢ならば折れない。兄弟3人が力を合わせれば、家が滅びることはない」
これは、実は架空の話。
まず、毛利隆元は父の毛利元就より先に死んでしまいました。その後を毛利隆元の息子の毛利輝元が継ぎ、吉川元春と小早川隆景が補佐を務め、毛利家を守っていきます。
しかし、皮肉にも「3本の矢」の逆が起こりました。関ヶ原の戦いの時、吉川家と小早川家の足並みがそろわず、毛利家は東軍の徳川家康に協力したにもかかわらず、広大な領地を減らされ、周防国と長門国の2カ国を支配するだけなってしまいました。
ところが、毛利元就には6本の隠し矢があったのです。毛利元就には、全部で9人の息子がいました。毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人は正妻の子で、残り6人は側室の子なのです。毛利本家の毛利輝元には子がいなかったため、毛利元就の四男・穂井田元清の子である毛利秀元が、毛利本家を継ぐことになりました。そのため、幕末まで続く長州藩の毛利家は、長男でも次男でも三男でもなく、「四男の家」ということになるのです。
「1本の矢ならば折れる。2本の矢でも折れる。しかし、3本の矢ならば折れない」
「あの、3本とも折れてしまったんですけど……。どうしましょう?」
「うふふふ。じゃ~ん! 実はあと6本、矢を持っていたんだよね」
こんなふうかどうかはわかりませんが、毛利元就は4本目の矢を取り出したというわけです。
3本見せておいて、6本隠しておく……。
毛利家は先祖代々4本目の矢に救われた、という話でした。
(文=浮世博史/西大和学園中学・高等学校教諭)