通貨発行益(シニョリッジ)という言葉を経済ニュースなどで目にしたことがあるだろう。政府がお金の発行から得る利益のことだ。
たとえば、1万円札の製造コストは約20円なので、政府は1万円札を発行するごとに差額の約9980円が利益として懐に入る。実際には、中央銀行である日本銀行がお金を発行し、それで政府の発行する国債を買い取るかたちをとるから少し複雑だが、単純化すればそういうことになる。
最近では日銀の若田部昌澄副総裁が5月23日の参院財政金融委員会で、日銀は自ら発行した紙幣で国債を買い入れ、利子を受け取るため、通貨発行益が生じると説明。「日銀はやや長い目で見れば、必ず利益を確保できる」と語り、一時的に債務超過に陥っても問題はないとの考えを示した。将来の金利上昇による日銀の収益悪化が懸念されていることに対する答弁だ。
けれども、政府が通貨発行益を求めてお金を大量に発行すれば、お金の価値の低下につながり、結局は経済を疲弊させる。その実例は、日本で政府が初めてお金を発行した古代にさかのぼる。
日本最古の貨幣といえば、以前の教科書では、708(和銅元)年に鋳造された和同開珎(わどうかいちん/わどうかいほう)とされてきた。しかし近年行われた飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)の発掘調査で、天武天皇の治世である683年頃から、朝廷によって銅銭が鋳造されていたことが明らかになった。この銭を富本銭(ふほんせん)と呼ぶ。
富本銭より前に、無文銀銭(むもんぎんせん)と呼ばれる銀貨が使用されていたこともわかっている。これは日本の政府が発行した通貨ではない。貿易通貨として、朝鮮半島の新羅から輸入されたとの説が有力である。
それではあらためて、古代の日本政府が通貨発行益を求めた経緯やその影響をたどってみよう。
政府通貨に苦しめられ続けた国民
天武天皇は676年、新たな都城の造営に着手する。この計画はすぐに頓挫したが、6年後の682年には造営が再開される。ちょうど富本銭の発行が始まったとみられる時期だ。経済学者の飯田泰之氏は「財源の不足から造営の中止に追い込まれ、財源確保の方法としての富本銭発行プロジェクトが考案されたのでは」と推測する(『日本史に学ぶマネーの論理』天武天皇の没後、新都は皇后の持統天皇が完成させ、694年に遷都する。藤原京である。中国の都をモデルとし、日本の先進性を内外に示すことを狙ったとされる。
和同開珎も同じく、発行の目的は新都建設に伴う物資の購入や労賃の支払いだった。707年頃、藤原京からのちに平城京と呼ばれる奈良への遷都が検討され始めると、再び財政収入を求めた貨幣発行プロジェクトが始動する。天候不順が続き税収が減っていたこともあり、財源の確保を急いだとみられる。前述のとおり、和同開珎は708年に発行された。平城京に遷都し、奈良時代が始まるのは2年後の710年である。
富本銭も和同開珎も、朝廷が実際に発行益を手にするには、乗り越えなければならない壁があった。人々が朝廷の通貨を信用し、受け取ってくれることである。人々が信用せず、受け取りを拒否したり、法定価格より低い価値でしか受け取らなかったりすれば、朝廷は期待した発行益を得られない。
ここで朝廷にとって目ざわりになったのは、政府通貨より昔から流通していた無文銀銭の存在である。人々が慣れ親しみ、商品としても価値のある銀貨を使い続ければ、政府通貨はいつまでたっても普及しないからだ。そこで朝廷は強硬手段に出る。天武天皇が683年、「今後は必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いてはならぬ」と命じた。無文銀銭に代わって富本銭の使用を命じたのである。もっとも、命令どおりに事が運んだとは考えにくい。むしろ混乱を招いた可能性もある。そのためか、銀銭禁止のわずか3日後、銀での取引を認めている。
一方、和同開珎は銀銭と銅銭の2種類が発行され、早くも翌709年、銀銭の発行を停止する。製造コストの安い銅銭で大きな発行益を得るという目論見があった。朝廷は銅銭の使用を促すため、富本銭以上に強引な手段を繰り出す。同年、銀の地金を通貨として使うことを禁じた。また、高額取引では銀銭を、少額取引では銅銭を使えと命じた。
当時、人々は無文銀銭のほか、米や布をお金代わりに利用していた。それを禁じ、朝廷の通貨を使うよう強制したわけである。さらに710年代には、田を貸借する際に地代を銭で支払うよう強制。加えて、平城京の市で政府通貨の受け取りを拒否することを禁じた。これを撰銭令(えりぜにれい)という。
こうした強硬策にもかかわらず、銅銭で発行益をたっぷり稼ぐという朝廷の狙いは十分には達成できなかった。社会で銀地金と銀銭が流通し続け、銅銭の法定価格が守られず、市場ではそれ以下の価値で流通したからだ。
それでもある程度の発行益は得られるため、朝廷はその後も都の改築費や軍事費を捻出するため、通貨鋳造を繰り返す。和同開珎以降、平安時代の10世紀までに朝廷が発行した銅銭を総称して、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)と呼ぶ。
改鋳のたびに、新銭1枚をもって旧銭10枚にあてるという無理なレートで発行した。しだいに鉛の含有量が増え、品質が劣化し、通貨の価値が下落する。裏を返せば、物価が上昇した。711年から751年までに米価は15倍になった。さらに751年から764年までに6倍になった。大幅なインフレである。
古代日本の人々は、慣れ親しんだ銀銭や金貨代わりの米、布などの使用を禁じられ、朝廷から質の悪い通貨を押し付けられたあげく、所有するお金の価値低下や物価高に苦しんだわけだ。
リブラ普及への危機感
今の日本ではアベノミクスによる異例の金融緩和を背景に、人件費や物流費が上昇し、日用品の値上がりがじわじわ広がっている。物価が大幅に上昇しない一因は、銀銭や銅銭を用いた古代と違い、今は政府が発行する円以外に通貨の選択肢が事実上存在せず、人々が円を使わざるをえないためだ。もしフェイスブックの「リブラ」などのデジタル通貨が普及し、人々が円から乗り換えれば、円の価値が一気に下がる(円でみた物価が上昇する)可能性もある。
政府は権威が揺らぐだけでなく、通貨発行益という特権を失いかねない。各国の通貨当局がリブラを激しく批判する背景には、そうした事態を恐れる危機感がある。
庶民に不便や物価高という犠牲を強いても通貨発行の利益を独占したがる権力者の本性は、1300年前の昔から変わっていない。
<参考文献>
飯田泰之『日本史に学ぶマネーの論理』PHP研究所
今村啓爾『日本古代貨幣の創出』講談社学術文庫
高木久史『通貨の日本史』中公新書