夏は特殊清掃業者の電話が鳴りやまなくなる季節だ。私が事故物件や孤独死を追い始めて、もう4年という月日が過ぎた。この季節から孤独死がぐんと多発する。
そもそも、なぜ私が孤独死に興味を持ったのか。私が初めて事故物件に興味を持ったのは、今から4年ほど前にさかのぼる。ひょんな偶然から、大島てるという事故物件公示サイトの運営者と知り合い、本を出すことになったからだ。その本の企画で、「死臭を嗅いでみてはいかがですか?」というてる氏の提案から、真夏の燃え盛るような暑さの日に、江東区の都営アパートを訪ねたのが初めてだった。
階段を上っていくと、すぐに現場はわかった。ブルーの鉄製のドアは緑色のビニールテープで、まるで殺人現場のように、ありとあらゆる吹き出し口が、周到に目張りしてあったからだ。換気扇の吹き出し口、そして、ドアの四方八方、キッチンの小窓が厳重に覆われている。そのせいか、いわゆる死臭と呼ばれる臭いはなく、消臭剤のようなツンとする臭いが鼻をつく。臭いはなかったが、一室だけ目張りされたドアは周囲からは明らかに浮いていて、一種の異様な雰囲気に、ただただ圧倒されるしかなかった。その横では、カップラーメンの臭いが漂っている。隣の住民は、日常生活を送っているのだ。
2件目に大島氏から送られてきたのは、都内のURの物件だった。エレベーターで該当のフロアに降り立つなり、あまりに強烈なウッとする臭いが、鼻孔を暴力的に襲ってくる。
フロア全体に充満していたその臭いに、おもわずむせそうになる。それは、どこか甘ったるい腐った油のような臭いで、うだるような夏の暑さの中を漂っている。
大きな蠅が、ブーンと目の前を通り過ぎ、ある一室の小窓に張り付いている。「ここだ!」と思った。この物件に目張りはなく、金属製のドアの隙間から、これでもかとばかりに異様な臭いが漏れ出てくる。フロアに近づいただけでこれだけの臭いを発するのだから、恐らく近隣住民の家にも、甚大な被害が及んでいるだろうと考えずにはいられなかった。
帰りに電車に乗っていると、隣に座ったサラリーマンが私のほうを見ながら、鼻をヒクヒクさせているのが気になった。サラリーマンは私を一瞥すると、すぐに席を立った。私の体についた死臭を察知したのかもしれないと思った。
私は家に帰ると、すぐに衣類を脱ぎ捨て、頭からシャワーを浴びた。鼻の穴に、臭いがこびりついているような気がして、指を突っ込んで何度も水を注いで、ジャワジャワと洗浄する。しかし、一度記憶として鼻に残っている臭いは、何度洗浄しても落ちそうもなかった。衣類も洗濯機に入れたが、何度洗っても死臭がついているような気がした。そのため、全部捨てることにした。
事故物件の取材を通じて見えてきたもの
この2件は、どちらとも死因は孤独死によるものだった。事故物件の取材を通じて、その原状回復を手掛ける特殊清掃のほとんどが孤独死であることを知った。そんなに孤独死が多いのかという事実に、私は驚きを隠せなかった。事故物件を通じて見えてきたものは、孤独死という暗闇が日本社会を覆いつくそうとしているという現実だった。
しかし、誰もまだそこに目を向けようとはしない。私は、その神髄に迫るべく『孤独死大国』(双葉社)、『超孤独死社会』(毎日新聞出版)という本を執筆した。その取材の過程で、特殊清掃現場に幾度となく密着した。
特殊清掃現場は過酷を極め、危険と隣り合わせだ。体液だけでなく、糞便が飛び散り、真っ赤な吐血のあとがあることもある。孤独死者の死因が不明な場合は、感染症のリスクもあり、戦々恐々としながらも、日々特殊清掃業者は業務として向き合っている。
年間3万人と言われる孤独死だが、その何倍も起こっているというのが、長年私が孤独死を取材してきた実感だ。孤独死は、少子高齢化、単身世帯の増加など、さまざまな要因によって起こるが、一番深刻なのは、社会的孤立の問題だ。日本少額短期保険協会 孤独死対策委員会が5月に公表した「第4回孤独死現状レポート」によると、孤独死者のうち65歳未満の人は5割を超えるという。そして、発見までの平均日数は17日。遺体がこれだけの日数見つからないということだ。
長年孤独死を取材してきた立場からすると、まず、国はその実態を一日でも早く把握し、対策を打ち立ててほしいと願っている。しかし、それだけではなく、孤独死の前段階である孤立という問題は、私たち社会構成員一人ひとりが目を向け、考えなければならないのではないだろうか。
(文=菅野久美子/ノンフィクション作家)