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江川紹子の「事件ウオッチ」第144回

ゴーン被告逃亡で浮き彫りになった日本の「犯罪人引き渡し条約」の現状…今こそ議論を

文=江川紹子/ジャーナリスト
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カルロス・ゴーン氏(写真:ロイター/アフロ)

 レバノンに逃亡した日産元会長のカルロス・ゴーン被告は、鳴り物入りで開かれた記者会見の後も、精力的に世界に向けて発信を続けている。

後手に回ってしまった日本

 スペイン紙に対しては、「人々がのんびりと休暇やスキーに行く時期だからだ。いいタイミングだった」と自画自賛。「逮捕された時は驚かされたが、出国では驚かせてやった」と、してやったりの体だ。

 ブラジル紙にも「決定、計画、実行とも迅速に行った。なぜなら日本人は迅速ではないからだ」「日本人は綿密な準備と計画と理解がなければ、迅速に行動しない。逃亡を成功させるには、素早く出し抜く必要がある」と述べ、笑顔を見せた。

 フランス紙には、最高経営責任者(CEO)を務めていたルノー社からの辞任について、「茶番だ。退職に関する私のすべての権利を要求する」と語り、退職手当約25万ユーロ(約3000万円)の支払いを求めて労働裁判所へ申し立てていることを明らかにした。さらに、生涯にわたって受け取れることになっている、年77万ユーロ(約9400万円)なども要求している、とのこと。

 これについては、労働組合が反発。ルノーでも数万人の労働者がゴーン氏によって解雇されたとし、「雇用と業界をめちゃくちゃにしておきながら、ルノーをクビになった従業員のように労働裁判所へ行こうとしている」と批判している。

 また、フランスの雑誌のインタビューでゴーン氏は、「地元の人が少しも加担することなく、日本を出国することができると考えるなら、それは幻想だ」と述べ、逃亡に日本人の協力者がいたことを示唆した、とも報じられている。

 それが事実なら、協力者は犯人隠避罪や出入国管理法違反に問われる可能性がある。日本の捜査機関は、全力で捜査をしなければならないだろう。

 ほかにも、本を出すとか、アメリカの大学や投資関係のイベントから講演依頼があるとか、今回の出来事を映画化するのではないかとかいう話も伝えられている。

 情報発信という点では、日本は完全に後手に回っている。事実についての説明はタイミングを逸してしまったし、刑事司法の問題点については反論できていない。

 それどころか、森雅子法務大臣が「(ゴーン被告は)無罪を証明すべき」などという失言をして、ゴーン氏の代理人弁護士から「有罪を証明するのは検察であり、無罪を証明するのは被告ではない。ただ、あなたの国の司法制度はこうした原則を無視しているのだから、あなたが間違えたのは理解できる」などと皮肉られる始末だ。

 4月には京都で、5年に1度開かれる犯罪防止・刑事司法分野における国連最大規模の国際会議「国連犯罪防止刑事司法会議」(京都コングレス)が行われる。そんな中で、時代に追いついていない日本の刑事司法の問題部分があらわになってしまったのは、かなり痛い。

 ただ、ゴーン氏のほうも、今後、すべてが順風満帆にいくとは限らない。彼は、情報発信はしても、多くの人が最も関心を抱いている、逃亡の経緯については口をつぐんでいる。それを明らかにせず、過去の業績自慢と日産の権力闘争や日本の刑事司法への批判だけでは、本や映画などでの成功は難しいのではないか。世界の人々の同情と関心を長く引きつけておくこともできないように思う。

2カ国としか結ばれていない「犯罪人引き渡し条約」

 現在、レバノンは、ゴーン氏を海外渡航禁止としている。彼は入国の際に使用したフランスのパスポートを当局に提出しており、当面はレバノンに足止めされた状態だ。

 この処分はいずれ解かれるのだろうが、彼はICPO(国際刑事警察機構)から国際手配されている。これでは、海外渡航禁止が解除になっても、身柄拘束のリスクを考えれば、すぐに海外を飛び回る気分にはなれないだろう。

 もっとも、この手配書に強制力があるわけではない。

 たとえば、長年にわたって日本の捕鯨活動を妨害してきた反捕鯨団体「シー・シェパード」(SS)の創設者で、ICPOが2012年に国際手配したカナダ系米国人のポール・ワトソン氏。一度、ドイツで身柄拘束されたものの、保釈中に国外逃亡した。

 一時はアメリカに滞在していたが、その後フランスに住み、パリで知り合った女性と結婚。同国では環境保護活動のリーダー、文化人として受け入れられ、カンヌ映画祭にも招待されて、新妻とレッドカーペットを歩いた。日本はフランスに身柄の引き渡しを求めたが、この両国の間には犯罪人引き渡し条約は結ばれておらず、今なお引き渡しは実現していない。

 ただ、報道によれば、彼は少なくとも一時期はフランス国外に出ることを相当に警戒している様子が見受けられ、国際手配によって彼の行動範囲を制約する効果はあった、といえよう。

 現在、ゴーン夫妻が滞在しているレバノンは、日本との間で犯罪人引き渡し条約を結んでいない。外交ルートで要請しても、身柄の引き渡しは期待できない。多くの国は、特に条約などで定めない限り、自国民を外国に引き渡さないのが通常だ。彼は、ほかにフランスとブラジルの国籍も持っているが、そちらに移ったとしても、いずれの国も同じ対応をするはずだ。

 それは日本も同じで、フジモリ元ペルー大統領が日本に亡命した際、日本政府はペルー政府から再三にわたり引き渡しの要請を受けたが、同氏に日本国籍があることを理由に拒み続けた。

 それでも、ゴーン氏が国籍のない国に渡った場合には、その国が国際手配に応じて身柄を確保し、日本に引き渡す可能性もある。ゴーン氏とすれば、リスクを避けるために、行動範囲には慎重にならざるを得ない。

 とりわけ、日本が犯罪人引き渡し条約を結んでいるアメリカは、ゴーン氏にとってはハイリスクの国といえよう。

 また、国外逃亡について、アメリカで民間警護会社を経営する、元米陸軍特殊部隊員(グリーンベレー)ら米国人の容疑が固まれば、日本の捜査当局がこの条約に基づいて、アメリカに引き渡しを求めることは可能だ。この条約においても、アメリカが自国民を日本に引き渡す義務まではないが、裁量によって引き渡すこともできる。日本側としては、引き渡しを実現して、逃亡の全容解明に努めたいところだ。

 ただ、日本が犯罪人引き渡し条約を結んでいるのは、アメリカ以外には、韓国だけ。中国とは、何年も前から交渉を続けているが、今なお条約締結には至っていない。

 アメリカやイギリスは、100を超える国々と引き渡し条約を結んでいる。韓国も29カ国との間で条約を締結している。なのに日本は、なぜ日韓の2カ国だけなのか。

条約締結に向けて議論を

 この問題については、日本は死刑制度があるために、死刑を廃止しているヨーロッパの国々から条約を結んでもらえない、という解説がしばしば行われる。死刑制度の影響がまったくないとまではいわないが、それがメインの事情ではあるまい。

 というのは、“死刑大国”の中国は、日本よりはるかに多くの国々と犯罪人引き渡し条約を結んでいるからだ。人権団体は、中国では年間数千人規模で死刑執行が行われていると指摘。しかも、実際の執行数などは国家秘密とされ、極めて不透明な状態にある。

 ところが、この中国は57カ国と犯罪人引き渡し条約を結び、うち39カ国との条約は発効している。その中には、フランス、イタリア、ベルギーなど、死刑を廃止したEU諸国も含まれる。この条約に従って、詐欺などの被疑者が大量にヨーロッパから中国に引き渡された実績もある。

 実は、死刑廃止の国々との条約には、中国で死刑に当たる犯罪の場合、中国側が死刑執行をしない確約をしなければ、フランスなどの死刑廃止国側は引き渡しを拒める、との条件がつけられている(条約の条文上は、相互に認められた権利となっている)。

 やはり死刑制度のあるアメリカも、死刑廃止国との間で同様の条件をつけた条約を結んでいる。

 日本の場合も、同じ対応は可能なはずだ。にもかかわらず、締結国が2カ国しかなく、中国との条約締結もなかなか実現しないのは、日本の法務当局があまり意欲的でないからだろう。

 犯罪白書によれば、この10年間に外国から引き渡しを受けた「逃亡犯罪人」は14人、外国に引き渡したのは8人。法務省の担当者に聞くと、引き渡し要請があったのは、その2~3倍程度。なので、わざわざ多くの国と条約を結ぶまでの必要性が感じられない、という。

 加えて、国際的な組織による犯罪については、国際組織犯罪防止条約に基づいて犯人の引き渡しを求める制度がある。

 そんなわけで、中国のように、死刑廃止国とは条件付きの条約を結ぶ案については、かなり消極的だ。

「日本が外国を巻き込んでまで引き渡しを受けたいのは、(死刑がありうる)重大な事件。(死刑事件は除くという)条件をつけてまで条約を結ぶメリットがどれほどあるのか……」(松本麗・法務省刑事局国際刑事管理官)

 ただ、日産ゴーン事件のように、死刑はあり得ずとも重大なケースはある。また、今後海外から観光客や労働者などを積極的に受け入れていこうとすれば、滞在外国人の数が多くなり、犯罪の増加も考えられる。

 日本は島国で、陸路で国外逃亡できる国と異なり、空港でのチェックをしっかり行えば、犯罪に関わった疑いのある人が、簡単に出入りしにくいという自信があったのかもしれない。しかし、今回の出来事で、それはまったくの過信であることが露呈した。

 犯罪人引き渡し条約を結ぶ相手国が、今のまま2カ国だけでいいのか。今回の事件を機に、議論すべきではないか。

(文=江川紹子/ジャーナリスト)

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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