都心や川崎市のコンビナート上空などを通過する羽田空港の新飛行ルートの運用停止を求める行政訴訟が起こされた。
6月12日に東京地裁に訴えたのは新ルート下の住民たちで、豊島、中野、新宿、文京、渋谷、港、品川、川崎の8区市の29名。訴状によると、国が昨年8月に示した新ルートには、騒音や落下物など生活への障害や危険性があると主張。新ルートを使わなくても管制方法を改善すれば同じ程度の増便は可能であり、便数の回復が見通せない現状で新ルートにこだわる必要はないとしている。
騒音は「最大でも80db(デシベル)」としていた公約をはるかに超える騒音被害
国は昨年秋に発行したパンフレット「羽田空港のこれから」や住民説明会で、ルート下での予想騒音値を発表していたが、今年3月29日の夏ダイヤからの運用実績を見ると、約75%の場所でそれを上回り、進入域である品川~大井町付近で軽く85dbを超えることがある。
一方、出発域では、新しくB滑走路を西に離陸する経路下の住宅地で、およそ人間が生活できないほどの異常な騒音被害が出ている。すでに実機飛行確認下の2月5日16時18分と2月7日15時41分に、ボーイング777により最大値94dbとの「国交省測定値」が、川崎市の医薬品食品衛生研究所で記録されていた。
報道によると、その付近の幼児は轟音により泣き出し、学校ではとても授業できる状況ではなく、しばしば中断するという。しかも、国交省も公認したこの騒音値は冬の2月に記録されたものである。気温が上がると空気密度も低下し、航空機のエンジンの出力が低下するのでパイロットはスラストレバーを出してエンジンをふかすかたちとなる。国交省が昨年末公表してきた騒音予測値は標準大気の15℃でのもので、しかもそれらは専門家に委託した科学的なものでなく、全国の空港で採取した音から適当に役人たちが決めたにすぎない。
国交省も、気温が上がり猛暑日になると騒音は約10%増えることを、私が出席したヒアリングで認めている。仮に10%増しとなると、大井町付近では約94db、川崎の住宅地では約103dbという計算になる。前述の国交省の出したパンフレットでは「騒音値は最大でも80db」と書かれているが、いったいこの公約はどこにいったのか。この一点だけをとっても国は公約に大きく違反していることになり、運用停止は当然で、裁判所はどう判断するのか注目したい。
国はこれまでの自治体との約束を一方的に反故に
長い間、国は羽田空港を離着陸する航空機については都心上空を飛ばず、海上のルートを使うことをいくつかの自治体と約束してきた。たとえば国が1970年に出した「羽田空港に離着陸する航空機は原則として川崎市の石油コンビナート上空を避ける」との通知がある。しかし、国は2019年12月に一方的にこれを廃止すると表明、理由は「事情が変わったから」というものだ。
私もパイロット時代には、川崎の石油コンビナートは3000ft(約1000m)以下は飛行禁止ということをいつも頭に入れてフライトをしてきた。理由は、万が一事故になったら低空では海上に出る余裕もなく大惨事になるからだ。このような飛行禁止の条件を変更するのならパイロットにも十分合理的な説明が必要であるが、ただ単に事情が変わったというだけでは説得力はないだろう。
参考までに、1970(昭和45)年11月6日付の東京航空局長の東京国際空港長に対する通知(東空航第710号、以下「旧通知」という、甲2)は、その表題が「川崎石油コンビナート地域上空の飛行制限について(通知)」というものであり、次のような内容である。「航空機は、国土交通省令で定める航空機の飛行に関し危険を生ずるおそれがある区域の上空を飛行してはならない」(航空法第80条、同施行規定第173条)とする規定に基づく通知である。
「表記についてはすでに飛行制限を実施しておりますが、川崎市長から別添のとおり要望があったので、さらに制限を強化することとし下記により措置されたい。
記
1.東京国際空港に離着陸する航空機は、原則として、川崎石油コンビナート地域上空を避け、適切な飛行コースを取らせること。
2.東京国際空港に離着陸する航空機以外の航空機は、川崎石油コンビナート地域上空における飛行を避けさせるとともに、やむを得ず上空を飛行する必要のある場合は低高度(3000ft以下)の飛行は行わせないこと」
IATAとIFALPAの安全上の懸念にどう応えるか
今年1月20日、世界の民間航空の業界団体であるIATAと、パイロット10万人以上で組織されるIFALPAは共同で、国交省が2019年夏に「騒音対策」と称して設定した3.45度のRNAV進入について安全上の懸念を訴えている。
世界の大空港での進入角度は3.0度が標準で、今般の3.45度の進入は尻もち事故やオーバーランにもつながるおそれがある。日本の航空会社には、それを防ぐために最終進入(地上から1000ft以下)時に降下率は毎分1000ft以内と決めた「スタビライズドアプローチ」と呼ばれる運航規程が定められているのだ。
しかし、この規定は降下角3.0度を基準に設定されたもので、3.45度(猛暑日は3.7度を超す)の急角度となるとボーイング777等の大型機での最大着陸重量下では、データ上すでに毎分1000ftを超えることになる。たとえば、気温が35℃ともなれば降下角は3.7度を超え、前述の条件で計算すると毎分1107ftとなり、国交省もこれを否定していない。
このようにデータ上、進入を開始する前から運航規程違反の状態を認めることになり、行政当局としては失格であり、この点についても裁判所がどのような判断をするのか注目したい。
行政訴訟に至った理由と裁判の行方
新ルート下に住む原告の方々が運用の停止を裁判所に求めた理由は、国が各議会での議論を不要として運用の強行に出たためだ。これまで品川区や渋谷区の区議会では全会一致で新ルートについて反対もしくは再検討を決議し、国に申し入れを行ってきた。しかし国は19年7月30日、新ルート関連の副区長を集めて騒音対策(真相は横田空域)として新たに3.45度のRNAV進入を提示した。
しかし、そこで異議が出されなかったとして当時の石井啓一国交大臣が実施を発表した経緯がある。このように一度だけは副区長の意見を聞いたかたちをとったものの、最初から専門的なRNAV進入について異議などを出されないことを想定し、聞くふりをしたポーズにすぎなかった。そして今年に入ってからは住民代表に対し、新ルートは行政の判断で自由に設定できる性質のもので自治体や住民側との協議事項ではないという主張を鮮明にしてきたのである。
つまり国交省は聞く耳持たずで、一度決めたものは絶対に撤回はおろか修正も行わないという姿勢がより明らかになったといえる。国交省は、住民や自治体が議会を通じて意向を伝えても、IATAとIFALPAが安全上の懸念を表明しても、増便の理由に挙げていた2020年の東京オリンピック・パラリンピックが延期されても、さらには新型コロナウイルスにより国際線・国内線・貨物便の大幅減便という事態が発生しても、元の海上ルートには戻さず都心の上空を飛行させるという理不尽な運用を続けているのである。
しかし、すでに予想をはるかに超えた騒音被害が出て、ルート下の住民の生命と財産が失われつつある。国が議会などを通しての話し合いも拒否する以上、残された選択肢として司法の判断に委ねざるを得なくなった。今回の行政訴訟はそのような状況の下で行われたものではないであろうか。
では、今後この裁判はどうなっていくのか。
おそらく国は公判の中で、管制方法や技術面での検討を行い住民の被害をより少なくするので訴えを却下してほしいとしてくるであろう。すでに6月に入って突然、赤羽一嘉国交大臣が2013年以来一度も開かれなかった有識者委員会を6月末までに開催して、本年度中にさらなる有効策を検討すると述べている。
しかし、私も参加した6月5日のヒアリングにおいて、国交省の担当者は検討を行うとしながら、AとCの滑走路に北側から進入する方式とB滑走路を西(川崎側)に離陸させる経路はこれまで通りと明言した。
これではいったいなんのための有識者委員会の開催か、わからない。単なるポーズであり、しかも検討期間が今年度中というのだから、2021年の夏ダイヤからの変更と受け取られても仕方がない。国交省の意図は明らかに引き延ばしと微調整で裁判を乗り切ろうとするものであろう。この際、裁判官はルート下の実況見聞も行って、早期の運用停止の判断を期待したい。
(文=杉江弘/航空評論家、元日本航空機長)