子どもたちが、大変な状況下にいる自分以外の誰かのことを思い、何かに一生懸命取り組むことはとても大切なことだ。できることならそうした努力が、大勢の人の笑顔につながれば良いのだが――。
福井県福井市の小中学生が新型コロナウイルス感染症の対応にあたる医療従事者への“感謝の気持ち”として、34万羽の折り鶴をつくり、医療機関に寄贈するという話題が物議を醸している。
地元紙の福井新聞ONLINEが24日、記事『医療者に感謝の折り鶴34万羽、福井 小中学生手作り、ギネス記録上回る』で伝えた。
同記事によると、同市明道中学校生徒会とPTAでつくる実行委員会が企画。市PTA連合会を通じ加盟校に呼びかけ、市内のほとんどの中学校が参加したという。学校行事や部活動の大会中止が相次いだこともあり、子どもたちは何か自分たちでできることをやりたいという思いがあったようだ。
折り鶴は当初の倍以上の34万3149羽になったという。そのうえで、「折り鶴と合わせて呼び掛けた募金は、福井市医師会を通じて医療機関に贈る。ギネス記録は約33万羽だが、認定に多額の費用がかかるため申請しない」(同記事)という。
美談なのかもしれないが、Twitter上では以下のように今回の企画に対して懐疑的な意見が噴出している。
「敢えて言ってしまいましょうか『感謝の押し売り』であると(残念)」(原文ママ、以下同)
「送られてきて、どないしろと…」
「作った学校だけで飾って欲しかったです…」
「こういうことするからダメなんですよね。そのことが本当に分かってない。これを命じたトップがいたはずです。全てそいつのせいで抜け出せなくなるんですよね、『感謝しておけば予算はつけなくてもイケる』概念から…」
東日本大震災被災の岩手へミスマッチ物資1000トン
「誰かのためを思って“折り鶴”を折る」という所作は美しいし、感謝の気持ちを伝える大切な方法だろう。だがこれまで自然災害などが発生するたびに、千羽鶴の贈呈に関する論争が巻き起こってきたこともまた事実だ。
東日本大震災の津波で役場庁舎が全壊し、町長含む町民777人が亡くなった岩手県大槌町の職員は次のように話す。
「津波で役場庁舎も被災しました。プレハブの仮設庁舎ができるまで、救援物資の保管場所はありませんでした。そんな中、ボロボロの衣服や腐った毛布など、いわゆるミスマッチの物資が大量に送られてきて、現場は混乱を極めていました。
岩手沿岸だけで死蔵化してしまった支援物資は1000トンを超えてはずです。震災発生当時は賞味期限切れのおにぎりの問題とかもありましたし、羽鶴もどうしたら良いかわからず非常に難儀しました。
自治体だけではなく、被災企業などにも数万羽の千羽鶴が寄贈されました。会社の倉庫内で段ボール数十箱に分散されて保管され続けている事例もあります。せっかくお子さんが私たちのことを思って折っていただいた大切な物ですので、軽々に捨てられません」
「折り鶴を送ることが悪いのではない」
同様に津波被害を受けた宮城県山元町の元職員は次のように話す。
「東日本大震災時、公共施設の多くが被災したため、避難所の通路なども使って何とか支援物資の受け入れをはかりましたが、その中でもっとも困ったのが現場の状況にそぐわないミスマッチな物資でした。例えば、6月過ぎに贈られてきた冬物衣服や、翌年2月ごろに大量に贈られてきたランドセル、そして千羽鶴です。
しばらくして国連食糧計画(UNWFP)さんの臨時倉庫を使わせていただけるようになり、切迫していた保管場所の問題は緩和しましたが、数年にわたってこうした物資の扱いには困りました。
最近では熊本地震や西日本豪雨などの教訓を経て、『支援物資のミスマッチを防ぐ』ことが少しずつ社会に浸透してきたと思っています。大切なことは適切なタイミングで、現場が必要なものを、必要な量だけ送るということだと思います。そのためには支援元と現地や現場との調整が必要不可欠です。
そして、この調整は千羽鶴を作ろうと折り紙を折っている子どもたちにはできません。支援元の大人がしっかり行わなければいけないことなのです。鶴を折り、送ろうとすること自体が悪いわけではないのです。今回のコロナ禍も、震災や熊本地震と同じように大切な“学び”があるはずです。
今回の件で言えば、現場の医療機関が何を送ってほしいのかを聞き、どうすれば力になれるのかをちゃんと調べた上で、企画を立案し、保護者や教員がしっかり子供たちの活動をバックアップしていれば、またとない実践的な防災教育の機会になると思います」
子どもたちの思いを、具体的にどのような形で実現するのかは、まさに学校の重要な仕事だ。「支援する側、支援される側の現状に思いをはせること」「困っている人を、適切に助けるためにはどうすればいいのかを、子どもたちに考えさせること」――どちらも、コロナ禍の今だからこそできる大切な“学び”ではないだろうか。