謹賀新年。
今年は酉年、十二支の10番目に当たる。この「酉」とはニワトリのことだが、「鳥」や「鶏」と区別して特に「酉」と書く。形声文字として音を当てたにすぎず、文字の原義としてはこの意味はない。「酉」の字は、元は「酒壺」を表す象形文字から転じたもので、今でも酒または酒壺の意味を持っている。そのため、部首としては酒類や発酵させてつくる食品などを表す文字に使われることが多い。
また、今年の干支は「丁酉」(ひのととり)となる。本来、「干支」とは「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十干(じっかん)と「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の十二支を組み合わせたものであり、同じ干支は60年に一度めぐってくることになる。60歳を「還暦」と称するのは、生まれた干支が再びめぐってくるからだ。
それでは、丁酉とはどのような年なのだろうか。過去の歴史からその傾向を探って、本年の動きを占ってみよう。
地方発の反乱が国政を揺るがす事態に?
まず想起されるのは、地方からの大きな動きが見られる年ということである。文明9年(1477年)に応仁・文明の乱が終息。しかし、11年の長きにわたる争いによる政治の空白化は、時代を地方の大名・国人らが群雄割拠する戦国の世へとシフトさせていった。最初期の戦国大名とされる伊勢宗瑞(北条早雲)が、駿河守護家今川氏の家督相続に介入するべく関東に下向したのは、この頃であったといわれている。
また、たとえば天保8年(1837年) には、大坂において大塩平八郎の乱が発生。前年まで続いた天保の大飢饉に伴う米価の高騰によって庶民生活は困窮しており、大坂町奉行所の元与力である大塩平八郎が門人らと共に困民救済を唱えて反乱を起こしたのである。
同じ頃、越後国柏崎においては生田万の乱が発生、「大塩門弟」と称して代官所を襲撃した。いずれの反乱もその日のうちに鎮圧されたが、幕府に大きな衝撃を与えるものであった。
さらに、明治30年(1897年)は足尾銅山鉱毒事件の被害者が上京して請願運動を行っている。この陳情の結果、明治政府は銅山鉱毒調査委員会の設置と鉱毒予防令の発布を行うことになる。
今年、国政に影響を及ぼすような大きな動きが、地方から湧き上がるのかもしれない。
過去には歴史的な大火や大噴火も発生
次に、丁酉は火にまつわる大規模な災害が多い。明暦3年(1657年)には、明暦の大火が起きている。明和の大火、文化の大火と並んで江戸三大大火の筆頭に挙げられるこの大火は、当時の江戸市街のほとんどを焼き尽くしたといわれている。このときに江戸城の天守閣も焼失し、それ以降は現在に至るまで復興されていない。
また、この明暦の大火の復興により、江戸に一大建設ラッシュが起きることになる。建築用材を扱うことで紀伊國屋文左衛門、奈良屋茂左衛門らが巨利を得ると同時に、その費用のために幕府は財政危機に陥り、徳川家康以来の蓄財を使い果たすほど窮乏したという。
これへの対応として勘定方・荻原重秀が実施したのが、いわゆる「元禄改鋳」である。従来の慶長金銀から金の含有量を大幅に削減した元禄小判を発行するという経済政策であり、幕府に多くの差益金をもたらすと共に、市場にも慢性的に不足がちであった通貨を流通させる結果となった。
この建設ラッシュとリフレ政策によって、後に「元禄バブル」と呼ばれる好景気の時代が現出されることになる。
また、安永6年(1777年)には三原山の大噴火が発生した。三原山の現在の山頂部はこのときに形成されたものであり、現在も当時の溶岩を見ることができる。
このように、丁酉は火にまつわる災厄が多いため、今年に限った話ではないが、火の用心を心がけたいものだ。一方で、大きな風水害の記録についてはほとんど見いだすことができなかった。
法律、財政…大規模な改革が行われた丁酉
また、中央においては大規模な改革が行われる年でもあるようだ。
天平宝字元年(757年)に、大宝律令に続く律令として養老律令が制定されている。「律」は刑法を、「令」は行政法を中心とする諸法であり、古代社会における基本法典ともいえるものである。
改正により成立した養老律令は、その後、形式的には明治時代に至るまで廃止されずに維持される。あるいは今年、現行憲法の改正について大きな動きが見られるのだろうか。
また、永仁5年(1297年)には、最初の徳政令といわれる永仁の徳政令が発令されている。二度にわたるモンゴルの来襲、つまり元寇によって疲弊した御家人の生活の建て直しを企図したものであるが、これは巷間いわれているような単純な債務放棄にとどまらず、越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止や債権債務に関する訴訟の不受理など法制度に関する改革も含まれる、包括的な施策となっている。
さらに、明治30年(1897年)には貨幣法が制定され、金本位制への移行がなされている。貨幣の信用を担保し、その価値を安定化させるべく、明治政府は貨幣をいつでも金と交換する兌換紙幣の発行を目指していた。
しかし、当初は交換に用いるための十分な金の準備がなく、銀をもってこれに代える銀本位制をとっていたのである。日清戦争の勝利によって、清国より2億テールをはじめとする巨額の賠償金を得た日本は、これを財源として金本位制への移行を果たした。
これにより、円の信用度は向上し、国際的な経済・金融秩序に加わることになったのである。今年は大きな改革、特に財政におけるそれがなされるのかもしれない。
さて、歴史から丁酉の年を占ってみたが、いかがだっただろうか。いささか牽強付会の感もあるが、読者諸氏の今年の指針の参考として、また飛躍の年とするための一助となれば幸いである。
(文=井戸恵午/ライター)