姑息な「天皇隠し」現代語訳で誤解を誘発…教育勅語の復権にこだわる信奉者たちの狙いと妄想
姑息な“天皇隠し”と「個人尊重」への反発
教育勅語を礼賛する人たちが言うように、確かに勅語には「親孝行し、兄弟仲良く、夫婦仲むつまじく」など、一般的な道徳も含まれている。ただ、それは天皇を中心とする皇国臣民としての心得であって、すべての徳目は最後の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(災難が迫ってきた時には大義と勇気をもって公に奉仕し、永遠なる天皇の権威を助け守るべし)につながっている。
それにもかかわらず、教育勅語を信奉する人たちは、「一旦緩急アレハ……」の部分を訳す時に、しばしば天皇に関わる部分を割愛する。
たとえば明治神宮の訳では、「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません」とある。あるいは4月11日付産経新聞の「主張」は「国の危急のとき、国民がそれぞれの立場で一致協力するという意味に尽きる」と解説した。
多くの人に受け入れられやすいようにという意図だろうが、肝心の「以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」を省略するのは、人々の誤解を誘うもので、やり方としてかなり姑息である。
そのような“天皇隠し”をしてまでも、127年も前につくられた古色蒼然たる文書に、どうしてかくも執着するのだろうか――。
それは第一に、戦後の教育を土台となってきた日本国憲法の価値観、とりわけ「個人の尊重」への強い反発であり、嫌悪感の表れであるように思う。
たとえば、教育勅語を「日本の伝統に基づくという意味で時間という縦軸があり、日本を超えて人類普遍の価値観を尊重するという点で世界という横軸もしっかりと意識されている」(『気高く、強く、美しくあれ』PHP研究所)と絶賛する、保守派の論客・櫻井よしこさんは、教育基本法の改正が議論されていた最中に、戦後の教育について次のように書いた。
「現行の教育基本法の問題点は、全てにおいて個人を強調しすぎ、家庭や家族を置き去りにしたこと、現場を強調しすぎ、教育行政への国の関与を“不当な支配”として排除しようとしたこと、日本国民を抱きとめ、守り育てる大きな枠組みとしての国家や、国家を構成する歴史や文明、穏やかで謙虚な精神文明の生成に大きな役割をはたした宗教心の重要性を無視して、まるで人間はみな突然、ひとりでこの世に生れ、ひとりで成長したかのように位置づけたことだ」(「週刊新潮」新潮社/2006年5月25日号)
戦後まもなくに制定された教育基本法は、目指すべき教育の方向性について、前文でこう書かれていた。
「われらは 個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」
2006年に同法は、「伝統と文化を尊重」「我が国と郷土を愛する」が教育の目的に盛り込まれるなど大規模な改正をされたが、それでも「個人の尊厳」は目指すべき教育の筆頭に残った。
この「個人の尊厳」の淵源は日本国憲法にある。憲法13条「すべて国民は、個人として尊重される」は、戦後日本の根本をなす価値観だ。一人ひとりの人間を、単に国家の一構成員として扱うのではなく、かけがえのない個人として尊重するということである。