予断を許さない神戸山口組の分裂騒動。任侠団体山口組を立ち上げた幹部たちは、離脱の理由に「神戸山口組内の悪政に耐えられなくなった」ことを挙げた。しかし、それと異なる事情があったとする向きもある。六代目山口組と神戸山口組の分裂の原因や、山口組のタブーに切り込んだ問題作『菱の血判 山口組に隠された最大禁忌』(サイゾー刊)の著者である藤原良氏は、今回の分裂の原因は、神戸山口組の中枢団体である山健組の人事のこじれが根本にあるというのだ――内部で何が起こっていたのか?
山健会館(神戸市中央区花隈町)で開かれた神戸山口組の緊急幹部会に織田絆誠・神戸山口組若頭代行をはじめとする複数の幹部たちが欠席したことで神戸山口組が分裂するという情報がマスコミ各社に渡ったのが4月29日。それから1週間ほど前、同所で別の会合が開かれた際、神戸山口組の井上邦雄組長(四代目山健組組長)の引退話と、神戸山口組の中核団体である山健組の五代目選定について、井上組長を含む最高幹部陣の間で口論が起こった。
さらに詳しくいえば、四代目山健組若頭への昇格が決定路線となっていた中田広志・山健組若頭代行(五代目健竜会会長)の人事について、井上組長、入江禎・神戸山口組副組長(二代目宅見組組長)、織田絆誠若頭代行(四代目山健組副組長/いずれも当時)らの間で意見対立したのだ。
井上組長が体力低下(現時点で69歳)を理由に引退することと、中田氏を山健組若頭に昇格させることを主張した井上・中田派に対して、井上組長はできる限り続投したほうがいいという入江・織田派。中田氏が山健組若頭になるということは、その時点で次期山健組組長の最有力候補(五代目)になるということだ。すると、山健組の副組長である織田氏はどうなるか。ヤクザ渡世の一般的な解釈からすれば、織田氏は五代目山健組の顧問職のポストに就くこともできるが、中田氏はこれを毛嫌いした。織田氏のポジションが事実上、宙に浮いたのだ。つまり、六代目山口組からの分裂騒動時の功労者である織田氏の将来的処遇と、中田氏の五代目山健組組長候補というふたつの人事案件がマッチしなかったのである。
そして、最も意見がぶつかったのは、井上組長の引退時期と六代目山口組との問題である。早ければ3年以内に六代目山口組の髙山清司若頭が出所してくる。その時点で、六代目山口組と神戸山口組の具体的な関係性がハッキリすると見られており、やはりその時までは井上組長が神戸山口組のトップでいたほうがいい。司忍組長、髙山若頭と六代目側の役者が揃うにもかかわらず、神戸側が分裂を主導した当事者の井上組長ではなく、二代目になっていたら、それはいささか話がしにくいのではないだろうか。仮に、井上組長と同じ分裂の当事者である寺岡修・神戸山口組若頭(俠友会会長)が二代目を継いでいたとしても、やはりどこかしっくりいかないところもある――入江・織田派はそう考えたのだ。
三つ巴の本格抗争をするとは考えにくい
こうした意見のすれ違いから、井上組長、入江副組長、織田氏、中田氏の四者が口論となった。そして、山健組内での織田氏と中田氏の軋轢が最大の要因となって、織田氏は脱退となったわけだ。
このように、今回の騒動の実態は、神戸山口組の分裂というよりは「山健組の分裂」と見たほうがいい。織田氏脱退に伴って、神戸山口組の直系団体(古川組、真鍋組)も脱退したが、これはあくまでも「山健組の分裂による余波」と見たほうが正確ではないだろうか。それだけ、神戸山口組にとって山健組という存在は大きく、また織田氏の存在も大きかったということだろう。
織田氏は「任俠団体山口組」を発足させた。だからといって、すぐに六代目山口組、神戸山口組とともに三つ巴の本格抗争をするとは考えにくい。任俠団体山口組は組織暴力団というよりは、親睦団体としての意味合いが強いように思える。実際に、今のところ組長や盃事が存在していない任俠団体山口組は、二十日会や某睦会のような交流目的の連絡会のようなものであると捉えるのが現実ではないだろうか。
(文=藤原 良)
●藤原 良
週刊誌や雑誌・マンガ原作・月刊誌等でアウトロー記事を多数執筆。万物斉同の精神で取材や執筆にあたり、主にアウトロー分野のライターとして定評がある。