また、ウーマンラッシュアワーの村本大輔さんはツイッターで「お前だけが被害者面すんな」と、番組を批判するLGBT当事者にかみついた。さらに、そのコメントを批判した認定NPO法人フローレンス代表理事の駒崎弘樹さんを、「あれはみんなゲイを笑っているんじゃなく石橋貴明って人を笑ってる。バカが偽善者面して当事者を語るな」と罵った。
こうした声に共鳴する人もいる。そういう人たちは、おそらく自分が差別に加担しているとも思っていないし、自分の中に差別する心があるのにも気づいていないのではないか。
「日本には人種差別の歴史がない」は本当か?
さて、ここで冒頭のブラック・フェイスの問題に立ちかえりたい。
この番組の制作者やエディー・マーフィーに扮した浜田さんに「差別する意図」があったとは思えない。それに、今回の番組で、浜田さんは黒人一般をステレオタイプに表現したのではなく、エディー・マーフィーさんという特定個人のいわば物まねだろう。
私自身は、表現はできる限り自由であるべきだと考えている。「差別」を理由に、さまざまな表現が使いづらくなるような「言葉狩り」のように、表現を制約するようなことはあってほしくない。それに、黒人の俳優やコメディアンが多い国々では、黒人の著名人の物まねは黒人がやればよいだろうが、日本だとそういうわけにはいかない。欧米での基準をそのまま持ち込んで、表現の選択肢を狭めてしまうことには、違和感がある。
しかもこの番組は日本語で、日本の国内に向けて放送されている。「ブラック・フェイスは黒人差別が激しいアメリカだから問題になった。アメリカ人は自分たちの価値観を、日本に押し付けないでほしい」という意見は、説得力があると思う。
その一方で、「これはアメリカの問題でしょ。日本は人種差別の歴史がない」という感覚で、この問題を語っている人が少なくないのも、同じくらいの違和感を覚えている。
確かに、アフリカや中東、中南米での植民地支配や奴隷制の過去があり、今も人種差別の克服が大きな課題である欧米に比べれば、日本は肌の色に起因する差別を実感する機会が少ない。しかし、だからといって日本人の中に、肌の色で人を差別する心がないというわけではないだろう。
日本人の母親とアフリカ系アメリカ人の父親を持ち、2015年のミス・ユニバース日本代表に選ばれた宮本エリアナさんは、次のように語っていた。
<ゴミを投げつけて笑われたり、知らんぷりされたりしました。「色が移る」と言われて、遠足や運動の時間に手をつないでくれませんでした。プールの時間もそう言われました。日本生まれ日本育ちなのに「アメリカへ帰れ!」と言われました>
<外見のせいで受けたつらい経験から、肌の色がコンプレックスに変わっていきました。当時を乗り越えられたのは、お母さんが「あなたの肌は綺麗よ」「みんな羨ましいからそんなことを言うのよ」と、肌の色を褒めてくれていたからだと思います>(2015年8月8日ハフポスト)
ナイジェリア人の父と日本人の母を持つ、東北楽天ゴールデンイーグルスのオコエ瑠偉さんもこう言っている。
「正直に言いますけど、ハーフの人はみんな感じていると思います。日本人はいじめ、差別じゃないっていうと思うけど、日本で暮らしている人にはいろんな思いがあるんです。生まれ育ってきても内心どこかで自分自身は日本人とは違う(とみられている)というのがある」(2017年9月5日ベースボールチャンネル)
在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチなどを考え合わせると、「日本には人種差別の歴史がない」と言うのは、現実を知らないか、自分自身の差別意識から目を背けているかのどちらかではないか。